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下関原爆被害者の会総会 被爆体験語る活動に全市的信頼

 下関原爆被害者の会の平成25年度総会が26日、下関市の勤労福祉会館でおこなわれた。下関原爆被害者の会は、二度と原爆や戦争をくり返させないために、被爆者の使命として体験を語り継ぐことを目的に再建されてから今年で19年目を迎えるが、今年は市内の小学校に出向いて体験を語る活動や市内各地での「原爆と戦争展」などがこれまで以上に広がっており、広範な市民に歓迎され深い信頼関係を築いてきたこと、そのなかで会員同士の絆が強まってきたことが大きな喜びと確信をもって確認された。そして、新たな戦争の危機が迫る現在、私心なく真の平和のために次の世代に語り継いでいく被爆者の会の役割が一層大きくなっており、さらに積極的な活動をおこなっていくことが確認された。
 総会のはじめに、すべての原爆死没者へ黙祷を捧げた。
 続いて挨拶に立った大松妙子会長は、「多くのみなさんのおかげで24年度を無事に終え、25年度を迎えることができた」と謝辞をのべた。また、「被爆者の高齢化が進む一方で、現在はきな臭い社会になり、戦争を知らない世代に戦争の真実を伝えることが大事になっている」とのべた。
 来賓挨拶の最初に、中尾・下関市長の挨拶を、保健予防課の河本敏子課長が代読。原爆投下から六八年が経過する今日、下関原爆被害者の会が市内での原爆と戦争展や学校で体験を語る講演会などで積極的に活動していることに敬意をあらわした。
 県被団協の竹田国康会長は、「憲法を変えようとしているなか、平和の尊さを伝えていくことが大事」「今、被爆者が語らなければならず、下関の会のみなさんには今後とも体験を伝える活動を広げていってほしい」とのべた。
 原水爆禁止下関地区実行委員会の平賀彰信氏は、市内各地で「原爆と戦争展」をおこなってきたことを報告し、「今後さらに活動を広げていけるように頑張りたい」とのべた。
 ここで広島、長崎、沖縄から、総会に寄せられたメッセージが紹介された。
 続いて24年度の活動報告がおこなわれた。下関原爆被害者の会はこの1年間、「平和な未来のために子どもたちに体験を語り継ぐことが被爆者の使命」として、修学旅行に行く子どもたちの事前事後の学習として、下関市内の王江小学校(4人)、江浦小学校(3人)、川中小学校(5人)、勝山小学校(8人)、安岡小学校(5人)、また長門市仙崎小学校(5人)に出向いて被爆体験を語ってきた。どの学校の子どもたちも真剣に学び、心の通いあう深い交流になった。
 また、市役所ロビーでの「原爆と戦争展」をとりくんだことをはじめ、長崎や広島で毎年開催されている「原爆と戦争展」や全国交流会に参加したこと、第84回平和教室、原水爆禁止広島集会、「第34回子ども・父母・教師のつどい」、劇団はぐるま座創立60周年祝賀集会や下関公演、新春市民のつどいや市民交流会などへの参加を通じて被爆者同士、また下関市民や全国の人人との交流が深まったことが報告された。
 さらに、若い教師の熱心なとりくみによって新たな広がりがあったこと、市立大学の学生も「自分たちもなにかできることをしたい」と意欲を語っていること、70代の被爆者や二世の参加も広がっていることが会員の喜びになっているとし、「それが会の再建以来私利私欲なく体験を語り継いできた活動の正しさであり、それを阻むものとたたかってきたことによるものである」「広島・長崎で被爆した被爆者にとって戦後六八年間忘れようとしてきた被爆体験を人前で語ることは勇気のいることだが、子どもたちの真剣な姿に励まされ、被爆体験を語ることが平和の力を育てることにつながっていくことに確信を深めた1年だった」と報告された。
 そして本総会を機に20年来続けてきた被爆体験を語る活動に確信をもち、核兵器を廃絶し、二度と原爆を使わせぬため、平和な未来の担い手を育てるため、会員同士励ましあい、協力しあい、さらに若い世代に体験を語り次いでいこうと呼びかけられた。
 その後、大松会長から「学校に話に行くと、先生方も子どもたちも戦争体験のない世代であるから、一生懸命聞いてくださる。私たちもそれに活力をいただいて頑張っている。一度話をすると子どもたちが感想を書いてくれて、それを見ると語って良かったと思う。今後は真実を語れる者として、一人でも多く勇気を出してお話ししてほしいというのが望みです」と、あらためて会員に語りかけた。
 続いて25年度の活動方針が提案された。小・中学校をはじめさまざまな団体、職場で体験を語る活動を積極的に強めていくこと、新たに会に参加して語ることができる人も増やし、全員で力を合わせて被爆体験を語り継ぐ活動を進めていくこと、また広島や長崎での「原爆展を成功させる会」とも協力して「原爆と戦争展」を各地でおこない、成功させるため努力していくことが方針として採択された。
 現行役員のもとで、引き続き結束して運動を進めることが確認された。総会の最後に「上関原子力発電所建設計画の白紙撤回を求める決議」と「総会宣言」が満場一致で採択され、全員で「原爆を許すまじ」を合唱して閉会した。

 子ども達の成長に喜び懇親会で活発な交流 

 総会後には、小中高生平和の会の教師たちも加わり、懇親会がおこなわれた。乾杯の後、再建後恒例となっている下関青年合唱団の合唱がおこなわれ、「花を贈ろう」「ふるさと」の2曲が披露された。その後、参加者から1年間の活動を通して感じたことが活発に語りあわれた。
 この間、数校の小学校に行って長崎で被爆した体験を語ってきた男性は、「お願いされた所には全部出向いて語ってきた。学校によって子どもの数も違うが、どこの子も一生懸命に目を見て聞いてくれた。安岡小学校では保護者もいて緊張もしたが、しかし若い世代の熱心さには涙が出そうなくらいうれしい思いだった。語るたびに勇気を与えてもらい、これからもできる限り一生懸命語っていきたい。そしてこれから先、日本が戦争をすることのないように子どもたちとも話を深めていきたい」とのべた。
 中学生のときに爆心地から約3・7㌔㍍の地点で被爆した男性は、母方の叔父の一家が全滅したことを話し、いかに原爆が非人道的なものであるかを強調した。そして、「被爆はわれわれの世代しか体験しておらず、それを後世に語り継ぐことは非常に重要な使命になっている。今の安倍内閣を見ていると、その被爆者の思いとは反対の方向へ向かっている。少しでも語っていく必要がある」とのべた。
 88歳の婦人は、「原爆の悲惨さ、自分自身の体験を後世に語り伝えていく使命を果たしていくことはもちろんのこと、今後どのような日本社会をつくっていくのか、日本のあり方についても考えていく必要がある。日本が存続していくために一人一人がなにをすべきか、若い人にも考えてほしい。消極的でなく前向きにいきたい。日本を変えるために、被爆者が若い者の先頭に立って頑張って運動していきたい」と強い思いが語られ、大きな拍手が送られた。
 看護婦として召集され、長崎の大村海軍病院で患者の治療にあたった経験をもつ婦人は、「私は直接被爆ではないため、最初は体験を話してこなかったが、長崎の生き残った人から“被爆の現状を見てきたのに、話さないのは恥ではないか”と厳しくいわれて話すようになった。私自身は痛くもかゆくもなかったが、原爆の悲惨さは目にも頭にもしみ込んでいる。機会があれば学校にも行って語っているが、今後も続けていきたい」と話した。
 会の再建当初からかかわってきた婦人は、「私は今年で90歳になった。学校に行って子どもたちに体験を語り“絶対に戦争はいけない”といったら、後から送られてくる感想文にみんな“絶対に戦争はいけない”という思いが綴られている。それを見ると、いつもうれしくなる」と喜びを語った。
 平和の会の教師は、「子どもたちを育てるための根っこになるものは、被爆者・戦争体験者の話を聞いて学ぶことだと思っている。黙っていたら戦争になるという今の社会で、みなさんが立ち上がって活動されていることに感謝している。平和の担い手を育てる平和の会の活動を、みなさんとともに頑張っていきたい」と発言した。
 同じく平和の会の教師は、「被爆者の方が語ってくださったことに学校の先生方が大変喜んでいる。話を聞く前までは、子どもが静かに聞くだろうかとハラハラして臨んだようだが、子どもたちが真剣に聞いて感想も内容が深いものであったことに喜んでいた。被爆体験を初めて聞く先生も多く、勉強になったといわれている。みなさんと一緒になって、平和の会の子どもたちも、原爆に反対し、戦争に反対するたくましい子どもに育てていけるよう頑張っていきたい」と発言した。
 前年度の活動の発展をともに喜びあい、今後次の世代へ被爆体験を語り継ぐ活動を中心に、さらに会を発展させていく意欲が生き生きと語られ、意気込みあふれる総会となった。

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