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被爆70年迎え力こもる取組 広島市安芸区で初の原爆展 意識的な参観者増える

 原爆展を成功させる広島の会(高橋匡会長代行)は11日から15日まで、広島市安芸区民文化センター(安芸区船越)ギャラリーで今年最初となる安芸「原爆と戦争展」を開催した。被爆・敗戦から70年を迎えるなかで意識的に来場する市民が多く、安倍政府による戦時体制づくりへの強い危惧(ぐ)とともに、第2次大戦と被爆のなまなましい体験と怒りが口口に語られ、若い世代からも八月に向けて市内各地で展開される原爆展運動への協力の申し出があいついだ。
 
 生々しい体験と怒りを交流

 会場では、広島の会の被爆者や被爆2世、労働者、主婦、学生などが設営、案内、受付などを献身的に担い、体験者は参観者に自らの被爆体験を語ったり、今年の8・6に向けたとりくみへの参加を積極的に呼びかけた。安芸区でははじめての開催となり、参観者は戦争体験者や被爆者、戦争遺児、被爆二世をはじめ、学校で配布されたチラシを手にした子連れの親世代、会社員、教員など5日間で450人が訪れた。
 じっくりパネルを見ていた81歳の男性は、太平洋戦争末期に2人の兄が戦地に出征したことを明かし、「19歳で出征して21歳でラバウルで戦死し、遺骨のかわりに帰ってきたのは紙切れ1枚だった。輸送船で大勢の若者が戦地に運ばれたが、武器も食料も補給されず、兄たちがどんなに純粋な思いを持っていたとしても、死にに行かされたようなものだ。なんのために死んだのかと思うと胸が張り裂けそうになる」と涙を浮かべて話した。墓参りで墓石に刻まれた兄たちの没年齢を見るたびにやるせない思いに駆られるという。
 「私は呉から原爆の光を見たし、約2000人が殺された呉空襲を体験した。あれから70年を迎えるが、今も戦争は終わっていない。国会は与野党のあげ足とりに終始し、国民を置き去りにして戦争可能な法整備が国会の中だけで着着と進んでいる。安倍首相が海外を回って金をばらまいたおかげで、国民の知らない間にイスラムから敵視されるようになった。原発も国民が知らないうちに全国に50基もつくられ、福島では大惨事が続いている。知らず知らずに戦争になっていたという前に、国民が一致して政治に圧力をかけないといけない」と強調した。
 七五歳の男性は、「妻が500㍍以内で被爆し、その後数数の病気を患って6年間の闘病生活をした後に、最後は卵巣ガンで亡くなった。どんな思いで死んでいったかを思うと悔しい気持ちがこみ上げてくる。安倍首相はアメリカと心中するつもりなのか。原爆があり、第五福竜丸事件があり、そして福島の大惨事があってもまだ原発を推進する神経。そして世界に対して“また戦争をする”ことを宣言しようとしている。今まではこういう運動には参加してこなかったが、このような展示なら参加したい」と涙をこらえながら話し、賛同者となった。
 呉市から夫婦で来た80代の男性は「叔父が紙屋町で写真館をやっていて被爆死している。私は中学3年で呉工業に通い、広第11空廠に動員されていた。父も技術者だったが呉空襲のときに爆弾の破片にやられて亡くなった。弟も国鉄に就職する予定で広島駅に行っていたが見つからなかった」と語り、「1番目と2番目の兄がミッドウェー海戦で戦死し、遺骨もない。靖国神社にはA級戦犯もまつられ、参拝する気にはならない。国の戦争責任をはっきりさせていない。技術者として15年間中国で働いていたが、国交回復前まで現地では日本への視線は厳しいものがあり、理解されるまで大変だった。安倍政府になってからまた両国関係が悪化していることが心配だ」と語って協力を申し出た。
 三篠地区で被爆した84歳の婦人被爆者は、姉が爆心地から1㌔以内の雑魚場町で被爆して死亡し、母親も動員先の土橋町で被爆し、原爆症で死亡したことを明かした。「幼い弟、妹と自分の3兄弟が生き残り、しばらくは親戚を頼って生活し、草を食べ、塩をなめて、貧乏のどん底で生きてきた。空鞘町に住んでいた従兄弟一家は、兄弟4人が死んでいる。戦争は、いつも貧乏人、弱いものが犠牲にされる。食べるものすらないのになぜあんな戦争をしたのか! 今でも納得できない。安倍さんはなにも知らないから勝手なことをいっているが、戦争でどれだけ国民を苦しめたか知るべきだ」と力を込めて語った。
 呉市出身の68歳の婦人は、戦後、進駐軍のトラックに同級生親子が轢かれて子どもは即死し、母親は片足切断の大けがを負ったことを語り、「麻酔なしで足を鋸で切断したというが、米軍からも国からもなんの補償も受けられなかったという。子どもを殺されてお母さんは気が狂ってしまった。呉には小学校の各学年に必ずハーフの子がいたし、近所には原爆のケロイドで顔が引きつった人もたくさんいた。私の叔父も被爆して全身にガラスが突き刺さり、両親がピンセットで引き抜いていた。安倍首相をはじめ今の2世、3世政治家はなんの苦労も知らない。辺野古の埋め立てを強行し、原発の再稼働をやろうとしている。アメリカがいくら“トモダチ作戦”などといっても広島の人間はみんな本性を知っている。この事実をもっと知らせないといけない」とのべ、賛同者となった。
 当時小学3年生だった70代の男性は、叔父が背中に「焼き肉」のようなヤケドを負って亡くなったことを語り、「当時この一帯は畑ばかりで、川土手に掘った防空壕に市内から逃れてきた多くの被爆者が倒れこんで死んでいった。それを毎日のように焼いて埋めていたのを幼心に覚えている。日本製鋼所では潜水艦をつくり、今の自衛隊の基地も含めて広大な土地に陸軍の運輸部が置かれ、兵員を送り出した宇品港と並んで軍需物資の輸送基地だった。今またそれがくり返されようとしており、当時の経験を伝えていくことが大切だ」と語り、原爆展運動に期待を表した。
 また、被爆遺族や戦争体験者、70周年を期して自費出版した体験記や詩集、戦時中の写真や軍隊手帳などの資料を提供する遺族、今年の8月6日に学校での被爆体験証言を依頼する小学校教員も訪れ、市民の強い行動意欲と響きあいつつ活発な交流がおこなわれた。
 広島写真美術協会のメンバーも数人訪れ、4月下旬から5月にかけて旧日本銀行広島支店で「広島の底力」と題する被爆からの復興当時の写真展を開催するとのべ、「広島から平和への思いを継承する活動に敬服する。ともに頑張りたい」と使命感を共有していった。
 主催する広島の会の男性被爆者は、「被爆70年ということもあり、若い世代から体験者まで非常に熱心に参観していた。とくに人質事件を契機にした憲法改定の動きに対する危機感が強く、行動の場を求めている人の多さを実感した。この世論を今年の8・6に向けて繋げていきたい」と意気込みを語っていた。

アンケートから

 ▼自分の父も海軍の兵隊で田舎に帰っていたとき、町からの命令で大竹から団体で広島へ建物疎開作業の手伝いに行って原爆にあい、8月9日に大竹に軍隊2名に両手を抱えられ帰宅しました。そのときの状態は両腕の皮が50~80㌢垂れ下がり、4歳の自分には強烈な姿で目に焼き付いています。その夜、8月9日に死亡となりました。今の安倍首相は憲法九条を清算し、戦争をする方向に向かっているとしか思えません。自民党だけの数の力で憲法を変えることは許されません。武器はつくらず、持たず、持ち込ませずの心を持ってください。(74歳・男性)

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