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再び戦争させぬ為語り継ぐ 呉市で「原爆と戦争展」 呉空襲で市民焼き殺した米軍

 広島県呉市の大和ミュージアムで1日から6日まで、第8回呉「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会)が開催されている。被爆と敗戦から70年を迎えるなかで広島市内や呉市の被爆者、空襲体験者、特攻隊経験者、軍艦慰霊碑世話人などの戦中世代、自治会や教員、商店主、医師、僧侶など130人に及ぶ賛同者がとりくみにかかわり、全市的な宣伝がおこなわれた。とくに戦前から今日に至るまで軍港と位置づけられてきた呉市での開催は、埋もれてきた戦争体験の実相を後世に受け継ぎ、二度と戦争をくり返させない呉市民の切実な願いを束ねるものとなり、会場には呉市内をはじめ県内や全国から訪れた観光客など5日間で1200人が訪れている。
 初日の午前10時からは、賛同者が集まって開会式がおこなわれた。
 主催者を代表して原爆展を成功させる広島の会の高橋匡会長代行は、「被爆と終戦から70年という節目の年だが、これまで戦争を否定し平和国家としてやってきた日本が近年その国是を覆して急速に怪しい方向へ向かっている。安倍首相が訪米し、集団的自衛権行使容認の憲法解釈変更について国会への提出前にしてアメリカ議会と確約することなどもってのほかだ。憲法までも時の権力者の解釈一つで自由に変えられるという前例をつくり、秘密保護法などあらゆる法律を右傾化させて戦争に突っ込みやすい国づくりをしている。私たち被爆者は戦争体験を幅広い人人へ継承し、なんとしても戦争のできない国にしなければならない。この原爆と戦争展を必死になってやっていくことが私たちの責務であり、それを最後まで全うして大きな成果に繋げたい」と挨拶した。
 続いて、呉市の被爆者を代表して、県立広島工業学校三年生のときに被爆した松本健三氏が挨拶。同じく呉から入学した3人の後輩たちが爆心直下の中島本町の建物疎開作業に動員されて被爆し、骨も見つからず「土の中に溶け込んでしまって死に場所すらわからない」ことを語り、「私が伝えていかなくてはならない」とのべて当時の卒業生の手記を紹介した。
 さらに18歳で呉空襲を体験した高橋節子氏は、戦時中に呉海軍工廠に勤務し、呉軍港から戦地に出港する軍艦からの弾薬の注文書のとりつぎ係をしていたことを明かし、「極秘事項で一切口外は許されなかったが、海軍工廠から海軍への返答の印鑑が“了解”から“不足につきしばし待て”へ変わり、最終的には“中止”。つまり、戦争末期にたくさんの兵隊を乗せて呉から出港した軍艦はほとんどが弾薬が補給されない丸腰のまま米軍が待ち構える海域へと送り出された。戦争に勝てないことはすでに真珠湾攻撃の宣戦布告のときにわかっていたはずなのに強行した。あるとき桟橋付近で、潜水艦上で海軍の若い兵隊たちが整列して灰ヶ峰に向かって最後の敬礼をしているのを見た。私たちが手を振ると、白い手ぬぐいに軍だけに支給されていたビスケットやチョコレートを包んで投げてくれた。片道燃料で死にに行くことがわかっているから目だけがギラギラとして“これからの日本を頼んだぞ”と訴えているように見えた。あの目は忘れることはできない」と話した。
 また、呉大空襲では米軍はすり鉢状の呉市の山裾から海側へ向けて爆撃して市民を追い詰めて波状攻撃を仕掛けて焼き殺したこと、自身も火の海の中を逃げ惑った経験を語り、「戦争だけはどんな理由があっても起こしてはならない。子どもたちが再び召集を受けることのないように平和を守る運動をやっていきたい」と熱を込めて語った。
 同じく呉空襲体験者の元川義秋氏は、「軍国少年として育ち、昭和20年は小学6年生で8月まで続いた六度の空襲を体験した。東京大空襲後、グラマン、ロッキードという艦載機が上空を飛び回って低空飛行で機銃掃射をやってきたり、海軍航空廠のあった広ではB24爆撃機が東西から挟むように近づいて爆弾攻撃をされ、母校は柱だけ残して全焼した。市民めがけた焼夷弾爆撃では逃げ場をふさがれ、横穴式の防空壕に逃げた多くの人がそのまま蒸し焼きにされ、6、700人もの死体を目撃している。呉空襲については知られていないことも多く、ぜひ後世に伝えていきたい」とのべた。
 会場には、市内の中高校生の集団参観をはじめ、連休を利用して大和ミュージアムの見学に訪れた家族連れ、学生、若い人たちのグループなど現役世代が多く訪れ、展示パネルを真剣に見て、常駐する被爆者から当時の体験を聞いていった。
 呉市内の40代の男性は、「呉市に住んでいながら原爆や戦争の実情についてあまりにも知らなかった。改めて戦争は絶対に起こしてはいけないと感じた。呉は昔から軍港で海上自衛隊が置かれ、日本を守るためには軍備増強は必要という論調が当然のようにいわれてきたが、一方で戦争の被害状況についてはフタをして伝えられていないと思う。社会党が昔いっていた“非武装中立”という主張は薄れてきたが、今度は安倍首相がアメリカで演説したように日本が世界中の戦場へ行く危険性が出てきた。安保があってもアメリカが無償で日本を守ることはないし、すべて自国の国益を中心に考えている。中国や中東、ロシアなどアジア諸国との関係も含めて、日本の立場が厳しくなるなかで、自ら進んでアメリカの捨て駒になるような暴走はしてもらいたくない」とのべた。
 鹿児島出身の20代の男性会社員は、「戦艦大和の展示を見に来たが、それによってどのような結末を招いたのか知ることも必要だと思った。戦争問題は、アメリカと連携して軍備拡大を叫ぶ側と、一切の軍事力を放棄して平和主義を主張する側との両局がいつも対立しているが、大切なのはここに書かれているような戦争の現実を知ることではないかと思う。日本は戦後、侵略行為について非難を受けてきたが、欧米もそれ以上の侵略をしているし、原爆投下という一瞬にして数万人も殺傷するような行為が許されていいわけがない」と話した。
 「とくに印象深いのが、満州事変という謀略で日中戦争が始まったというパネルで、国内が不景気になって企業が満州へと進出し、そこに軍隊を送り出すという方向は今とそっくりでハッとさせられた。こうして地道に活動されていることに感謝したい」と礼をのべていった。
 会場にいる被爆者たちも若い人たちに体験を語り、「私の父親も小学5年生のときに42歳で軍隊に召集され、万歳で送り出されたまま帰ってこなかった。まさか戦場に行くことはないと思っていても、現実に戦争が始まれば個人の主張は通らない。そうなる前にみんなで行動しなければいけない」「安保条約の建前は日本が基地を提供するかわりにアメリカが日本を守る義務を負うというものだ。それなのに集団的自衛権といって日本がアメリカの戦争の手助けをするというのは筋違いも甚だしい。それなら日本中の基地を持って帰らせるべきだ。アメリカのためになぜ死ななければいけないのか」と思いを伝えていた。
 東京から小学生の息子を連れて参観した男性は、パネルを見た後に被爆者から親子で体験を聞き、「戦艦大和を見に来たが、戦争の現実についても学ばせたいと思って連れてきた。非常に意義深い展示だと思う。被爆者の方の話は、つい最近のことのように鮮明で戦争に対する切迫した思いを感じる。この新鮮で切実な思いこそ今自分たちが受け継ぎ、子や孫に伝えなければいけないものだと思う。私の両親も東京大空襲で家を焼き出されており、“なぜあれほどの被害を出しながら戦争を終わらせなかったのか”といつも話していた。最近の安倍首相のワンマンぶりは当時の東条英機と重なるものがある。国会が何の歯止めも掛けられず機能していない。この被爆体験こそ戦後政治の原点だと思うし、この思いが一人でも多くの人に広がっていくように自分も行動していきたい」と話した。

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