いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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明治維新の拠点となった下関   野田五郎

下関では、高杉晋作の史料が持ち出され東行記念館をつぶすという問題、また江島市長らが音頭取りとなって坂本龍馬のマスコミ人気にあやかって高杉の記念碑を並べて建てるという問題などがあり、市民の大きな論議になっている。下関は高杉と奇兵隊の活動の舞台となり、したがって明治維新の全国的な拠点となったところである。この高杉と明治維新を冒とくする流れが、その拠点となった下関から、とくに高杉が眠る東行庵の内部にまで浸透したのである。それは下関の市長をはじめ有識者といわれるものの軽薄ぶりをあらわすもので、全国的な笑いものといわなければならない。下関において高杉と明治維新を顕彰することは今日きわめて重要である。

 全国の商品と情報の集中化
 長州藩、なかでも下関は明治維新の全国的な拠点となった。天皇からは勤皇派の中心であったはずの長州藩が「朝敵」とされ、「討伐令」が出されて幕府軍が攻め、長州藩内は幕府恭順の俗論派が萩政府を占領して討幕派をつぎつぎに殺していく。そのような維新革命最大の危機のなかで、倒幕勢力の砦となり、維新革命への大転換をつくりだした拠点となったのが下関であった。下関は高杉の活動拠点となり、馬関攘夷戦争の舞台となり、高杉が人民武装部隊である奇兵隊を結成し、そして萩俗論政府を一掃する功山寺の挙兵によって藩論を統一して倒幕態勢をつくりあげ、四境戦争における最大激戦地小倉戦争の勝利の拠点となったところである。
 下関には、京都を追われたのち五卿も来たが、中岡慎太郎など全国の志士も集まってきたし、坂本龍馬も西郷吉之助も来た。かれらが来たから下関は有名になったというものではなく、下関に当時倒幕の最大の力があったから全国から集まってきたのである。
 下関が高杉の活動拠点となり、倒幕の拠点となったのには根拠があった。下関は当時全国的な商品流通の拠点であり、全国で五本の指に入る大都市であった。当時の帆船時代には波の荒い太平洋航路は通れず、北海道、東北、北陸などの物産を江戸、大坂に運ぶには日本海から瀬戸内海を周回して運ばなければならなかった。下関は薩摩藩などの西南雄藩との交易ともあわせて、この北前船交易の集積地となり、全国の物産が集まり、問屋などが大規模に発達していた。
 いうまでもなく封建的な空文句ではなく実利、実益を重んじ、交易制限や身分制などの封建制のさまざまな束縛に反対して資本主義的な自由を要求する力が大きいところであった。回船問屋白石正一郎が全財産をなげうって奇兵隊のために尽くしたことは有名だが、当時の下関の商家はあげて自分たちの利益を代表するものとして物心両面からの支援を惜しまなかった。また下関には全国的な商品が集まるだけでなく、北前船などをつうじて諸国の確かな情報がもっとも迅速に多く集まったことは当然である。ちなみに、倒幕戦争の主力となった奇兵隊、諸隊は、下関をはじめ小郡、防府・三田尻、上関など瀬戸内海側で組織されたが、この地域はコメに加えて塩やロウなどの商品作物の生産、すなわちマニュファクチャー経済が交易ルートとともに発達し、封建制反対の力の強い地域であった。

  人民に依拠し実力をつくる
 明治維新が本格的になるのは長州藩が禁門の変で破れ「朝敵」の烙印を押されてからである。それ以前の尊皇攘夷運動は弱点をふくんでいたがゆえに敗北した。当時全国の尊王攘夷派は京都に集まり、公家回りをし、幕府や各藩のあいだの斡旋などに走り回ったり、幕府の役人を暗殺したりしていた。だが高杉は、そのような公家や各藩に幻想を持ち、その斡旋で倒幕ができるなどと考える観念的な潮流を功名勤王、悲憤慷慨派といって蔑視した。そのような観念的な潮流は、いったん天皇が裏切り幕府が弾圧態勢をとったらたちまち敗北する以外になかった。
 高杉はそのような無益な観念潮流を蔑視し、「ウワの進発は聞くも腹が立つなり」と京都出兵には断固として反対した。幕府を倒す実際的な力は地方の農民、商人・町民のなかにあり、防長二州に割拠して人民の力に依拠して実力をつくるという方向を断固として実現していった。奇兵隊は、長州の武士の軍隊が馬関戦争で無力さを暴露するなかで、攘夷戦を名目に高杉によって結成された。それは下級武士、百姓、町人など身分の別なく実力を重んじ、本質的に倒幕をめざした人民の軍隊という性格を持つものであり、明治維新を実現する決定的な政治的軍事的な力となったものであった。
 功山寺の挙兵につづく俗論政府との内戦の勝利による藩論統一以後、すなわち高杉の路線が藩内で勝利して以後は、勝利につぐ勝利となって、ついに260年つづいた徳川幕藩体制を打倒するところとなった。長州藩内にあった弱点、すなわちそれまでの尊王攘夷派にあった観念的弱点を解決し、藩内にはびこった幕府恭順派を一掃し、防長割拠態勢すなわち高杉路線が勝利したことによって、倒幕戦勝利の実際的な力ができたのである。そして函館戦争までフランスの支持を得て抵抗し、欧米従属の道をすすんだ徳川幕府を打倒し、近代統一国家をつくることでアジアでは唯一欧米資本主義国の植民地になることを拒絶し独立の道をすすむことに勝利した。
 わずか80人で決起した功山寺の挙兵は、たちまちにして奇兵隊、諸隊全体の立ち上がりを呼び起こし、全藩内の百姓、町民の決起を呼んで、萩の俗論政府をうち倒した。それは大暴発というものではなく、表面上の倒幕派壊滅の危機のなかだが、いったん行動するならば奇兵隊をはじめ人民の支持が集まることを確信したもので、高杉のすぐれた情勢判断とそれをたたかいによって転換する革命家としてのすぐれた面をあらわすものであった。下関市民のなかで現在も語りつがれている高杉への親近感は、どこかでつくられた英雄伝によるものではなく、当時の下関の父祖たちが直接に接触して得た高杉の印象である。そのような下関、吉田の人人の高杉への深い親近感が、130年を超えて高杉の墓のある東行庵を守る力になってきたのである。
 また十数万の軍勢で長州藩の四境に押し寄せた幕府軍を、わずか4~5000人の長州軍がうち負かした。それは戦国時代さながらの幕府軍にたいして、人民諸隊の戦斗力と近代性がはるかに上回っていたからであるが、なによりも社会の進歩を代表しており、防長に割拠し、百姓、町人の支持を得ていたからである。四境戦争でも各地の領民はその地の領主、いわんや征長軍ではなく長州軍を支持した。慶応年間には全国で、長州討伐にかかわる大名の地では激しい百姓一揆がまきおこっている。鳥羽・伏見、戊辰戦争でも大阪、京都などの商人・町民、百姓は、食糧その他の提供など積極的に長州軍を支持した。激しい戦斗となった長岡藩でも会津藩でも、長州軍が勝利し、戦死した長州兵の墓をつくって手厚く弔っているのは、そのゆえんであろう。

  井伊直弼の側に立つ現市長
 明治維新は、萩すなわち俗論派を支持して討幕派の弾圧をはかった毛利の殿様が中心になったのではなかったし、京都すなわち幕府と結んで長州藩を朝敵として討伐命令を下した天皇と公家が中心でもなかった。禁門の変では公武合体派で長州軍攻撃の側であり、第一次長州征伐軍の参謀であった薩摩藩の西郷吉之助が、そののち薩長連合・倒幕路線の側に動いた。それは長州の藩論統一による倒幕態勢の確立が、幕府をはじめとする藩幕勢力の権威を失墜させ、各藩での俗論・幕府恭順の流れを転換させたからであり、その力が西郷・薩摩藩の公武合体路線を転換させて高杉・長州藩の倒幕の側に引きこんだ関係である。
 この敵対関係にあった薩長間を倒幕連合させるために、直接に交渉し準備していったのは、高杉を兄と称した土佐の中岡慎太郎たちであった。坂本龍馬は、薩長連合の立会人の署名者になったりして、明治維新のある局面で一定の貢献をしているが、しかし龍馬は意識的に明治維新をやろうとした人物ではなかった。
 龍馬は、堺町門の変、幕府によるクーデターで尊王攘夷派が京都を追われる時期には、幕臣・勝海舟の弟子になっており、公武合体派であった。薩摩藩とも結んで亀山社中を長崎につくり、下関にも何度も来たが、それは海運業をめざしたものであった。龍馬の「船中八策」は大政奉還の提言で、土佐藩主・山内容堂をつうじて実現するところとなったが、それはまさに倒幕戦争が焦点となる時期に、幕府の権力を温存するものであった。
 龍馬の開国・近代化路線は、勝海舟などに代表される幕府の開国・近代化路線、すなわち清国のような植民地になることでも、倒幕・日本の独立による近代化でもどっちでもよいというものであった。敗戦後、対米従属国となり、いまでは「グローバル化」が唯一の真理であるかのように叫び、アメリカの戦争のために無批判に日本を総動員するところまできた現在の日本の支配勢力にとっては、徳川幕府の開国・近代化すなわち植民地隷属でも自分たちの支配の地位が守れればよいとする立場がピッタリなのである。
 龍馬のマスコミ人気にあやかって高杉を売り出そうという記念碑は、130年たった下関の市長をはじめとする有識者の軽薄ぶりを末永く記念する像になるほかはない。その下関の市長が、高杉と明治維新を冒とくする一坂氏を解雇することに激怒し、一坂氏を擁護するために東行記念館がつぶれてもよいとする態度は、黒船を率いたペリーの脅しに屈して不平等の日米通称条約を結んだ井伊直弼を尊敬している側といえる。
 維新以後、権力を握った連中によって人民が裏切られ、農民も労働者も強度の搾取と収奪にさらされ、戦争につぐ戦争をやり、最後は惨憺たる第二次大戦の敗戦となったことは、維新革命から学ぶこととは別の問題である。敗戦から以後は、明治維新をはじめとする歴史の断絶がやられ、高度に発達した資本主義社会でありながらアメリカの植民地支配を受けるという社会になった。この事態こそ、今日高杉と明治維新から学ぶことの重要さを教えている。
 高杉晋作が眠る東行庵と一体の東行記念館をつぶすような潮流が下関からはびこることは、下関の恥だけではなく日本全体の損失である。高杉と維新の正しい顕彰を下関の市民がすることは、民族の歴史も誇りも捨てたアメリカの回し者のような連中が大きな顔をする今日、日本の近代史にはたした下関に住むものの全国に対する責任である。

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