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下関・東行庵の高杉晋作史料 昭和11年に高杉家が寄贈

下関市吉田の高杉晋作が眠る東行庵から、270点の高杉史料が持ち出されて3カ月が過ぎた。その後、持ち出された史料の3分の1にあたる約80点が、東行庵所有の遺品であったことを証明する文書が見つかっている。吉田住民は持ち出された史料の返還を求めている。
 最近、新たに東行庵の所有を証明づける資料が見つかった。東行庵が発行していた『東行庵だより』の1987昭和53)年9月30日に発行している第3号の秋季号で、13頁に高杉家からの寄贈品が紹介されている。それは『東行庵だより』の愛読者からの通報により明らかにされた。
 その解説によると、高杉晋作が1860(万延元)年4月の21歳のときに、萩の剣客、内藤作兵衛から授けられた「柳生新陰流の免許皆伝書」で、昭和11(1936)年ごろに高杉家から寄贈を受けた貴重な史料として紹介されている。ちょうどこの年の7月に、「高杉紀念館」が開館されているところを見ると、別にこの史料にかぎらず、孫の春太郎氏の時期に全体の寄贈を受けているものと思われる。当時、発行にたずさわっていたのは3代目庵主の谷玉仙尼であった。
  
  一坂氏独断で史料を持出す
 今回の史料持ち出しにかんしてつくられた「東行記念館寄託 高杉家史料一覧」項目は、高杉勝氏が確認したことを示す印鑑が押してはあるものの、東行記念館の学芸員だった一坂太郎氏が、まるきりの独断で作成したものである。そのほか、「東行庵記録」「東行庵境内図面」などが高杉家のものとして持ち出されており、「東行庵は高杉晋作が死んでからできたもので、高杉家というより梅処尼にかんするものではないか」との疑いがもたれている。
 一坂氏は、リスト作成のさい、東行庵側が関与することを凶暴に拒んだが、結局のところ、貴重な史料を一切合切持ち出すためにたくらまれた陰謀であったことが暴露されている。
 こうしたなかで地元吉田では、「庵主さんは東行庵だよりで寄贈を受けたと書いてある。別に紹介されている軸物だけが寄贈ではないと思う。一坂は寄託だといっていたが、なんの根拠もない」「やはり、戦前から寄贈品として歴代庵主がたいせつに保管し、そのための記念館もわざわざ建てたということだ。それを学芸員1人のために閉館にさせられて、このまま吉田がだまっているわけがない」「もう1回、白紙にもどして一坂氏を加えず、東行庵と高杉氏とのあいだで決めなおした方がいい」などの論議がされている。
 つぎつぎに東行庵の所有を示す証拠資料があがるなかで、萩市もうかつに「窃盗品」を受けとるわけにもいかなくなった。

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