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下松工業高校バリカン丸坊主事件の真相 学校叩きは本当に正義か?

ねじ曲げられたメディア報道

 

 山口県立下松工業高校の1年生のクラスの担任教師が暴言や体罰をおこなったとして、3月下旬に「クラス40人全員と保護者39人が担任の懲戒免職を求める嘆願書」を提出したことをメディアがセンセーショナルにとりあげ、全国ニュースになった。担任教師(春の人事異動で転任)が無理矢理男子生徒をバリカンで丸刈りにし、暴言をはき、耐えかねたクラスの全生徒と保護者が懲戒免職を求めたという内容だった。ところが関係者に取材してみると、随分と偏った決めつけ報道で事実がねじ曲げられて伝えられており、そのことによって教師の指導性を否定し、袋叩きにする風潮を助長していることが浮かび上がってきた。下松工業の丸刈り事件とはいったい何だったのか、取材にあたった記者たちで真相を描き、教育的解決に向けてどうあるべきなのか論議した。

 

  3月下旬の「バリカンで丸刈り」報道によって、学校には全国から抗議の電話が殺到し、学校運営どころではなくなったという。全国ニュースでとりあげられたものだから、首都圏などからヒステリックな反応が押し寄せてきた形だ。教職員全体がその対応にあたったようだ。保護者など直接の関係者というよりも、東京や県外などどこの誰かもわからない人物による匿名の電話やメールの抗議が殺到した。昨今の体罰撲滅の風潮もあるのだろう。「バリカンで丸刈り」という部分切りとりの単純化された内容に過剰反応して、「可哀想な子どもを守らなければ」と反射神経が働いたようなのだ。

 

  下松工業高校では月に1回の頭髪検査があり、それまでに整髪してくるのがルールになっている。男子生徒がバリカンで丸刈りにされたのは昨年10月のことだった。関係者に聞いたところ、男子生徒は頭髪検査までに整髪をしてこなかった。9月も頭髪検査に引っかかっており、教師が散髪に行かせたこともあったという。何度指導しても生徒が同じようなことをくり返すため、担任が親に連絡し、本人と親の了解のもとにバリカンで丸刈りにしたという。担任教師が無理矢理丸刈りにしたのではなく、ルールを守らなかったからということはクラスの生徒たちも周知している事実だ。

 

  その男子生徒との関係では、それ以降も教師が何度も生活態度などについて指導をおこなっていたが改善が見られず、放課後に指導のために呼び出しても応じないという態度を続けたため、12月に親、生徒、担任、副担任で話し合いが持たれた。学校側はその場で「このまま態度を改めないのであれば学校を続けることはできない」と生徒と親に伝えたところ、親が「学校を続けたいのか、やめるのか」と子どもに意志を問い、生徒が「学校をやめたい」といったため、教師は退学願いの書類を渡したという。その後、男子生徒はしばらく学校を休んでいた。そして、生徒から退学届が出されたが、再度学校側と生徒側の話し合いが持たれた結果、退学にはならなかった。つまり、第三者にはわかりにくい複雑な事情があったということだ。

 

  何日間か男子生徒が欠席している期間に、クラスメイトのなかで「担任がその男子生徒を退学させようとしているのではないか」という不安が広がり、女性教師2人(教科担当)に相談している。その際、女性教師は生徒たちに担任に対するアンケート調査をおこなっている。アンケート結果には、「授業中に“バカ”とか“お前は病気だ”などと暴言を吐かれた」という記述もあったようで、12月末に事情を知った校長が担任教師に対して「(暴言について)行きすぎた指導だ」と忠告している。

 

 関係する人人のなかでは、既に12月に終わったと思われていた騒動だったが、三学期に入ってから一部の親から「子どもが担任を嫌だといっている。校長にいっても変わらないから県教委に直接いいたい」と女性教師2人に相談があったようで、その親の意見をとりあげて女性教師2人が主導する形で嘆願書提出まで持っていったようだ。

 

  嘆願書は『クラス担任による生徒に対するいじめと思われる様々な現状に対し、本人からの謝罪も、解決される保証もない。これまで複数回にわたり、保護者から改善を申し入れたが、全く聞き入れられず現在に至る。このままでは生徒が安心して学校生活を営める状況にないと判断し、「教員の異動・今後来年度以降クラスにかかわらない」ことや「人事を含めた大幅な環境改善をおこなうこと」』などを要望する内容となっている。この内容を2人の教師が生徒たちのグループラインに流し、「嘆願書に同意するかどうか保護者に聞いてきてほしい。また保護者会を開くので伝えて欲しい」と送っている。そして女性教師の授業のときに同意するかどうかを確認する用紙を配り、生徒本人の同意の意志だけでなく、親の意志を子どもたちに「○×」で書かせた。そのため嘆願書に否定的な保護者、嘆願書そのものを知らない保護者の名前が出ていることもわかっている。

 

  2月24日に校長にも知らせずに、2人の教師が呼びかけた保護者会が開催され、約20人の親が参加したという。参加した親のなかには嘆願書に賛同する親だけでなく、この騒動の経緯や様子を知りたいという親や、反対している親もいたようだ。その場で提示された嘆願書の内容は上記のものだったが、ある保護者が「ただ異動するだけでは新しい赴任先でまた同じような思いをする子どもが出る」と意見を上げ、「懲戒免職を求める」という嘆願書に変えられた。また嘆願書を「作成した教師二人に不当な処分をおこなわないこと」との要望も書かれている。なぜ「不当な処分」がおこなわれると考えたのかはわからないが、みずからの振る舞いに「不当な処分」がおこなわれるという自覚があったのだろうか。

 

 保護者会から2日後の2月26日に嘆願書が県教委に届いたのを受けて、県教委は翌日から聞きとり調査などを始め、3月15日にその時点でいえる内容について保護者向けと生徒向けに説明会を開き、指導のなかで乱暴と思われる点があったことについては謝罪し、担任教師も謝罪した。その後、15日の説明会だけでは不服だったと思われる誰かがマスコミに流したようで、3月22日の報道になったと見られている。社会的に制裁を加えなければ気がすまないという力が働いたということだ。

 

  教師が嘆願書を主導したために断れなかった生徒もおり、雰囲気に呑み込まれて不本意ながら同意した生徒や、担任教師の進退にかかわる問題に携わってしまったことで自分を責めている生徒、大大的に報道されショックを受けている生徒もいるという。何とも釈然としない形になっている。「僕たちは被害者です」と主張する生徒もいるが、教師と生徒との信頼関係がどうだったのかがまず気になる。担任教師と対立していた女性教師2人が、ここぞとばかりに親や子どもを利用して嘆願書まで持っていったと見なしている関係者が少なくないし、加害者・被害者とかの対立軸で片付けられる話ではない。

 

現場の即戦力に鍛える工業高校の教育

 

  下松工業高校は1921(大正10)年に開校した伝統校で、宇部工業高校とならんで山口県内の工業高校のなかでも古い歴史を持っている。そのため県内の工業高校のなかでもリーダー的な存在だ。工業高校は普通校とは違って、卒業後に地域や全国の製造業の現場に入り、即戦力として役立つ人材に育てることをモットーにしている。従って、校則などには特に厳しい側面がある。卒業生がつくってきた地域や就職先の企業との信頼関係なども大切にしており、生徒一人の問題行動によって学校全体の評価を落としてはならないという緊張感もある。同校では近年問題行動があったため、指導を通じて立て直そうという空気が醸成されていた最中の出来事だった。

 

  工業高校の出身者にしてみれば、頭髪検査で引っかかったら丸坊主はあたりまえだった。基本的には男子校であり、「ルールを守る」という面で厳格な指導がされている。やんちゃな盛りの男子高校生たちが、社会人の仲間入りをする前に徹底的にしごかれる場とでもいおうか。運動会を見たらわかるが、体育面でも普通校とは訳が違う。まず先輩後輩の関係からしても絶対的なものがあったし、教師との関係となるとなお厳しいのがあたりまえだった。旋盤や溶接といった実習もあるが、ふざけていたら命の危険もともなうため、非常に厳密かつ真剣な緊張感を持って教師と生徒の関係がある。

 

 そのなかで、怒鳴られたりすることもしばしばだ。怒鳴る教師がけしからんのではなく、怒鳴られる生徒がけしからんことをしているから怒鳴られるわけだ。その際の言葉は、「○○君、君がやっていることは斯く斯く然然(かくかくしかじか)でいけないよ」といったグジグジしたものではなく、もっと単刀直入で反射的だ。現場で失敗や致命的ミスをした場合に、先輩から「このバカ、なにやってんだ!」と怒られるようなことは社会に出ればいくらでもあるが、その度に「パワハラを受けました」といいつけにいくだろうか。未熟な者が怒られながら失敗を糧にして技術を磨き、現場で育っていくのが普通だ。そのように厳しい製造現場に巣立っていく子どもたちを鍛えている工業高校において、ルールにルーズであるとか、自分の思うがままに好き勝手を貫くとかの状況を野放しにしていたのでは、まず教育にならない。だから、今回の一件についても指導方法に問題があったとしても、指導することについて否定するのであれば本末転倒だろう。

 

  生徒を丸坊主にした担任教師は、何度もその生徒に指導したがルールを守らなかったため、本人と親の了解をとって丸坊主にしている。担任教師について周囲の評価を聞いてみたところ「学校のなかでも厳しい人で、きっちりと指導するタイプだった」という意見が多い。暴言や体罰をやりまくるとんでもないタイプというわけでもなく、卒業生が今回の件で先生の今後を非常に心配するほど慕われてもいる。

 

 しかし一方で、厳しい指導に対して不満を持っている生徒がいるのも事実だ。例えば学校内での携帯電話の使用が見つかった場合、他のクラスでは初回は口頭注意で終わるが、この教師は絶対に没収し、その期間が長かったという。また頭髪検査に引っかかったときも、このクラスだけは奉仕作業をさせていたという。「ルールを守る」ことに対して、厳しい姿勢を持っていたということでもある。それが「けしからん!」となると、ルールなしの野放しが良いのか? ともなりかねない。規制するのではなく、なにをするのも自由で、ふざけたいときにふざけ、終いにはバイトテロのようなバカみたいな事件を引き起こすのが良いのか? となる。極論ではあるが、教育や指導を巡る不満やいざこざに起因しているのであれば事情は千差万別なわけだから、第三者が首を突っ込むべきではない。とくにメディアは慎重でなければならない。

 

  「バリカンで丸刈り」だけに過剰反応して、自分の子どもが通っているわけでもないのに遠方からわざわざヒステリックな電話をかけてくる人間の気が知れないのだが、事情もわからずに被害者vs加害者に問題を単純化してしまい、そこから一方を袋叩きにするというのでは教育的な解決にはならない。今回の場合、はっきりいってしまうとメディアが全国ニュースにするほどの大問題ではないし、複雑に絡み合った事情を「バリカンで丸刈り」だけに収斂(れん)するのは乱暴極まりないことだ。「教師の味方をするのか!」という意見もあるかも知れないが、味方とか敵とかの問題か? と思う。教師にも問題はあったかも知れないが、それにしてもメディアが首を突っ込み、全国ニュースにするほどのものではない。

 

 C 社会的に鍛えたり厳しく指導することがはばかられる風潮が蔓延している。生徒たちが育ってきた環境が変わり、『質実剛健』という言葉や校風が受け入れられにくい状況もあるようだ。あと、教育関係者を取材しているなかで話になったのは、最近は自分が気にくわなければすぐに警察や県教委に直接通報するような中・高校生が少なからずいるという。「先生が暴言をはいた」とか「先生が体罰した」と子どもが訴えれば教師が処分を受ける。いった者勝ちの世界ができあがっている。そのように被害者の立場でマウントをとって、「加害者」をやっつける構造がある。東京の高校あたりで、生徒がわざと教師を怒らせて殴らせ、動画まで撮っていたのがあったが、気に入らない教師をはめて懲戒免職に追い込むとか結構悪質なものも増えている。この特徴は、教師・生徒の立場が逆転していることだ。教師が「受益者」である生徒の機嫌をうかがい、指導がはばかられるという事態を招いている。下手に指導すると逆恨みされてはめられる恐さがある。

 

 あと、教師の体罰は禁止になった一方で、例えば下関でも何年か前にある中学校が荒れていたが、子どもが集団で大暴れして教師にドロップキックをあびせて校庭の池に突き落としたり、無抵抗なのを知って顔面を地面にたたき付けたりして、警察が20~30人で踏み込んだことがあった。教師は殴りかかってくる子どもに対して後ろに手を組んで「手を出していない」姿勢をすることがマニュアルなのだそうだ。あるいは抱きついて動きを抑えるくらいしか抵抗できないのだという。顔面をたたき付けられて血を流すくらいなら、殴って本気の大人として指導すればいいのにと思うが、手を出したが最後。体罰教師に祭り上げられてはたまらないから、ガンジーをやっている。なんともしれない光景だ。まるでやりたい放題の動物園じゃないかと思ったくらいだ。教育者と生徒との関係がひっくり返っている。子ども天国の状態でいったいどんな子どもが育つのかと思うと寒気がする。

 

  今回の件でもっとも痺れるのは、同僚教師が生徒や保護者の「総意」を装って県教委への懲戒免職要求を主導していたことだろう。文面まで含めて作成を担い、「不当な処分」をしないよう自己防衛のための文言も盛り込んでいる。子どもへのかかわり方に問題があると思っているのであれば、なぜ職員会議で問題提起し、話し合って解決しなかったのか。なぜ同じ学校で教育に携わっていながら、このような展開になったのかだ。日頃から気に入らなかったとか、嫌いだったとかの恣意を含んでいるのなら論外だ。やはり、正正堂堂と全職員の前で思いの丈をぶつけ、担任教師に「私はこう思う」と問題点をぶつけるべきだったのではないか。

 

  関係者の多くが、この事件の根底には2人の女性教師の私憤があり、別件逮捕のような形で担任教師をはめていったと見ているのも事実だ。「悪目立ちしたおかげで、就職の段になると企業が下松工業高校○年○○化といったら警戒する結果を生み出している。工業高校は就職率をもっとも心配するのが常だが、子どもたちのその後のことまで考えていたのかは疑問だ」と周囲は心配している。不当だ! 正義だ! といっても必ず反作用はある訳で、後先を考えての行動なのか? 子どもたちの将来を考えての行動なのか? 私憤なら話にならないよねと語られている。不当であれば多いに闘えばよいと思うが、指導が気に入らないという程度の動機なら反作用の方が大きいだろう。

 

  学校周辺の地域の人たちは「(下松工業の件は)テレビ報道と実際は違うようだね」とか「厳しい先生の小言を生徒が鬱陶しく感じることもあるだろうが、そういう先生のありがたみは社会に出てからでないとわからない」という人もいた。昔から下松工業高校の気風は地域の人人も熟知しているし、どうしてこれほど騒がれるのか? というのが実感のようだ。頭髪検査で引っかかり、丸坊主にされた卒業生などゴロゴロいるし、そんな卒業生たちも問題になった教師について「厳しいけど、理不尽に怒鳴ったりするような人ではない」「言葉がきついこともあるが、自分の感情だけで激高するような先生ではない」と話していた。

 

  マスコミについて、しっかりと事情を取材してもいないのに、一方的な歪んだ報道によって学校現場を大混乱させていることに批判の声は強い。今回の下松工業高校が典型的だが、最近は学校での「体罰」問題をめぐって教師と子どもとの関係性、どんな指導を経たのかなどまったく考慮せず、体罰をしたかしないかという紋切り型でしか問題をとらえない傾向が強い。それによって「いいことはいい、悪いことは悪い」と教育することがはばかられ、教師が反射的に萎縮してしまっている。面倒なことには巻き込まれたくないという意識が強まり、モンペやその子どもには極力かかわりたくないし、つつがなく過ごしたいというものだ。イジメ、体罰等等でメディアが叩き回していくことで、結果として教育者としての指導性が剥奪されている。ここに最大の問題がある。指導性を否定する社会的圧力はすさまじいものがあるが、教育の根幹である指導を投げ出したらそれは教育ではない。教師は子どもの子守係ではない。子どもたちにとって「師」でないのだとしたら、いったい何になるのだろうか。

 

  下関市立商業高校での「剣道部顧問による体罰」報道がされたのが2月だったが、こちらも事が起こったのは昨年10月のことだ。その教師への評価も賛否両論あったなかで、剣道部の生徒や保護者のあいだではすでに解決済みの問題だった。それが年度末間際になって新聞報道され、PTA関係者は驚いている。次年度の採用が継続されることをよく思わない教師による内部告発なのだともっぱらの噂だ。

 

 密告→メディア報道→学校・教師叩きがパターン化して、その度に学校内外で大騒動がくり広げられる。本当に不当で子どもたちを殴り回しているとか、ろくでもない教師がいるなら問題にしなければならないが、気に入る気に入らないの類が増えていることを学校関係者たちの多くが危惧している。メディアも日頃から巨悪は何ら叩かないのに、学校叩きになると腕まくりして登場してくる。社会全体がそうしたヒステリックな袋叩きに味をしめてしまい、教育的にどうあるべきだったのかが二の次にされている。それに迎合したり屈服してしまったら、教育は成り立たない。

 

  学校は社会性を育む場で、集団のなかで考え方も育ちも違う人間同士が協力したり、ケンカしたりして成長していくところだ。嫌なことや苦手なことも克服しながら、子どもたちは協調性を身につけながら成長していく。ところが子ども同士の些細ないざこざでも「いじめ」と感じれば「いじめ」となり、「いじめられたー!」といって今度は親やメディアも味方にして、凶暴に逆マウントをとっていじめていく構造がある。強烈な個人主義イデオロギーがこの根底に横たわっている。マウントのとり方の定型みたいなものができあがっている。弱者を守らなければならないという意識が社会全般には当然ある。それはあたりまえだ。しかし、弱者であったはずの側が今度は強者になって、より攻撃的になって仕返しを展開していく。その行為は、「弱者だから」といって正当化される。これでは本当の意味でのいじめの解決にはならない。子どものケンカが、昔のように当人同士の“ごめんね”“いいよ”で終わらず、親や弁護士が介入するようなことも珍しくなくなっている。どうしてそんな些末なことで…と思うような案件でも上り詰めてしまう。

 

 また学校生活のなかで当然、教師による厳しい指導が必要な場面もあるだろうが、「言葉の暴力」や「体罰」と子どもが感じれば教師が罰せられるようになっている。それで「教師の体罰禁止」「親の体罰禁止」といって一体だれが子どもたちを教育するのかということだ。指導されぬまま大人になって、厳しい社会に出てドロップアウトしてしまい、放り出されれば誰も助けてくれないのがこの世の中だ。あるいはバイトテロみたいな幼稚な事件を起こしてしまい、結局のところ大企業から膨大な損害賠償を請求されて泣くのは親だ。良いことは良い、悪いことは悪いと教え、時には厳しく指導するのは愛情だ。打たれ弱い子が増え、大学によっては「叱られる研修」みたいな事までやり始める時代だ。優しさが甘さに転換され、厳しさが愛情と捉えられずに憎悪されることによって、全般的に過保護が蔓延している。悪ガキは「コラっ!」と叱る世の中の方が健全だ。

 

 A 自分の権利ばかり主張するような大人が増え、「煽り運転」や「バイトテロ」などが社会問題となるまで幼稚化している。今だけ、カネだけ、自分だけ。自分が腹が立ったら理性をかなぐり捨て、野性的に追い回すのが煽り運転で、あれなどは最たるものだ。野蛮な社会が到来している。

 

  中学校の教師と話になったのだが、「生徒たちが悪いことをして叱っても、叱られたこと自体にショックを受けたり、あるいはキレて逆上するだけで、なぜ怒られたのかを考えようとしない」ことに悩んでいるという。「自分が嫌だから人を傷つけてなにが悪いのか」という思考回路になっており、以前であれば自分が悪いことをした自覚があるので話が通じたのだが、これまでのような生徒指導が通用しなくなったという。他人はどう思うかという客観的意識が乏しい自己本位型が増えているようだ。

 

  子どもだけではないのかも知れないが、思考が短絡化しており「嫌だ」→「むかつく」→「死のう」という発想になってしまう。人間関係で嫌な思いをしたりする場面はあたりまえにあるが、そのなかで葛藤したり、解決に向けて行動したりという発想にならない。厚生労働省がまとめた2017年の人口動態統計で、戦後初めて10~14歳の死因として自殺が1位になった。ショッキングなものだ。この10代前半の自殺は他の世代ほど原因が解明されておらず、いじめを苦にした自殺よりも「楽しくないから」とか生きる希望が見えない無気力など、「なぜ?」と思うような動機が多いようだ。

 

 子どもたちに教育を施し、進むべき未来への手助けをするのは教師だけの仕事ではない。親や地域社会全体の仕事でもある。昨今の風潮はとかく教師と親を対立させたり、学校叩きに傾斜しがちだが、学校・教師・子ども・父母・地域社会全体が一致して、子どもをどう真っ当な社会の担い手に育てるか共通の思いで挑まなければ、喧喧囂囂(けんけんごうごう)とした状況は収拾がつかない。学校現場は年年難しい状況が広がっているが、教師・子ども・父母が相互不信ではなく信頼を築いて、一緒に育てていくことによってしか解決の道はない。

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