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歴史否定の波に抗う――差別と偏見の現場を取材して ノンフィクションライター・安田浩一

 山口県宇部市で3日におこなわれた長生炭鉱水没事故82周年犠牲者追悼集会で、ノンフィクションライターの安田浩一氏がおこなった講演内容を要約して紹介する。(文責・編集部)

 

◇◇     ◇◇

 

安田浩一氏

 長生炭鉱の追悼式に参加したのは4回目だ。確実に何かを獲得しながら進んでいるという実感を得ることができる極めて稀な追悼集会だと思う。

 

 私は「遺骨」がどんなに大事なのか、韓国の遺族の方から話を聞いて実感している。私が共同通信で連載をしていた時に長生炭鉱のことを記事でとりあげた。その連載のなかで、インタビューした相手が元自民党幹事長の古賀誠さんだ。

 

 ちょうど沖縄の辺野古で土砂投入が始まっていた。沖縄戦で亡くなった方の骨が混じっている土砂を、よりによって軍事基地の建設に投入するというのは許せる話ではない。「辺野古の土砂投入どう思いますか?」と聞いたときに、古賀さんは珍しく熱を込めて私にこう話してくれた。古賀さんの父親は戦時中、レイテ沖で戦死している。軍から戦死の知らせと白木の箱が届き、それを母親と一緒に開けると中に入っていたのは小石が一つだった。そのことを母親はずっと怒っていたそうだ。「国のためといいながら、骨も返さないのか」と。だからこそ戦争は許せない、憲法九条は守り抜くのだということだ。そして辺野古の埋立てについて、「人骨だよな、あの土砂は……。亡くなった方は報われない」と骨の話から辺野古についてきちんとお話してくださった。古賀さんといえば自民党宏池会を率いてきた人だが、戦争は人間の骨すら還さない無慈悲なものということをきちんと主張している。そして憲法九条に関しては指一本触れさせないという人だった。

 

長生炭鉱水没事故犠牲者183名の名が刻まれた追悼碑(山口県宇部市床波)

 「遺骨」は大事なのだ。ましてや長生炭鉱では、ある日突然、命を絶たれてしまった。家族からしたらこんな理不尽なことはない。長生炭鉱といったとき、植民地主義、日本の戦争責任、日本における朝鮮半島出身者に対する差別といった文脈で語られてきた。もちろん今でもその思いは大事だが、遺骨にかける家族の人たちの思い、「長生炭鉱の水非常を歴史に刻む会」のみなさんの熱意をようやく理解できたような気がする。今日の追悼集会で「坑口を開ける」とはっきり宣言された。今年の2月3日は重要なエポック(起点)だと思う。

 

 これからお話することは、在日コリアンに対する差別や、朝鮮人虐殺、強制労働の話になるが、すべて民間の調査によって明らかになっている話だ。国や都道府県が何もやらないので、一般市民が歩いて地道に掘り起こしてきたことだ。長生炭鉱もそうだ。ご遺族の方を見つけるために、韓国に何百通もの手紙を出したり、永田町の議員会館の国会議員事務室700室以上を一軒一軒回る。本当に大変で地道なことを誰かがやらなければここまでこなかった。それを私たちは目の当たりにしている。長生炭鉱の地道な調査にかかわったみなさんに改めて感謝を申し上げたいと思う。

 

 みなさんの活動は、亡くなった人や遺族への同情心からだけではないと思う。もちろんその気持ちが出発点としてあるだろうが、遺骨を放置することによって、あるいは真実を明らかにしないことによって壊されるのはこの社会だ。私たちは地域と、社会と、人間を壊さないために、こうした地道な努力が必要なのだと思っている。そうした意味で非常に保守的な運動かも知れない。何かを壊すための運動ではなく、人権を守る、地域を守る、社会を守るための運動であり、本当の意味の保守とはこういうことなのではないかとも感じる。勇ましい言葉よりも、一軒一軒訪ね歩き、手紙を書いて地道に活動されてきた人たちを私は信用したい。「国を守る!」と大言壮語を吐いたり、「この社会を変える!」と大きな言葉でいうよりも、一軒一軒、足を使って何かを獲得していく人たちの尊さを私はここで見た気がする。

 

 長生炭鉱のピーヤ(排気筒・排水筒)を模した追悼碑には、日本人犠牲者、朝鮮人犠牲者それぞれの名前が刻まれている。碑には「強制連行」と書いてある。正面から事実を正しく伝えていることが大事だと思う。今「強制連行」の定義など議論している暇はなく、私たちの日本社会というのは、朝鮮半島出身者を無理矢理働かせるような環境をつくり出したという事実だ。そして今もそれが続いている。外国人技能実習生の実態について私は「現代版の女工哀史」といういい方を当初からしていたが、奴隷労働と思うようになった。現実にアメリカ国務省は、日本の外国人技能実習生に関して「人道的に問題がある、人身売買である」と何年も連続して発表している。かつてそれ以上にひどい労働が日本でおこなわれていた事実をこの追悼碑はあらわしている。今の社会で、強制連行という言葉を使うことがどれだけ勇気がいり大変なことなのか。「強制連行」という言葉を使ったがために朝鮮人労働者追悼碑が壊されている。

 

群馬県では追悼碑撤去 「政治的」と問題視し

 

県立公園「群馬の森」のなかにあった朝鮮人労働者追悼碑。2月1日、県が代執行によって強制的に破壊・撤去した(群馬県高崎市)

碑の撤去を開始する前日から動員された群馬県警の警察官たち(1月28日)

 群馬県高崎市の県立公園「群馬の森」の敷地内にあった朝鮮人労働者追悼碑が、つい一昨日、まるで採石場の岩ように粉々にされ壊されてしまった。そして現在、ただの更地になった。なくなったのは追悼碑ではない。大事な大事な歴史の一場面が消されてしまった。あるいは「なかったこと」にされてしまった。

 

 追悼碑の建立は今から20年前の2004年に群馬県議会が全会一致で設置を決めたものだ。もともと群馬の森がある場所は、軍の火薬敞(火薬製造工場)だった。近接する太田市には中島飛行機があり、ダム建設、鉄道建設のため多くの朝鮮人が労働を強いられた。だからこそ群馬県の公有地に追悼碑をつくることは大きな意味を持ち、山口県と並んで自民党保守王国でありながら反対する人はいなかった。

 

 この追悼碑の名前は「記憶 反省 そして友好」だ。これほど前向きな言葉はない。碑文には「21世紀を迎えたいま、私たちは、かつてわが国が朝鮮人に対し、多大の損害と苦痛を与えた歴史の事実を深く記憶にとどめ、心から反省し、二度と過ちを繰り返さない決意を表明する。過去を忘れることなく、未来を見つめ、新しい相互の理解と友好を深めていきたいと考え、ここに労務動員による朝鮮人犠牲者を心から追悼するためにこの碑を建立する。この碑に込められた私たちのおもいを次の世代に引き継ぎ、さらなるアジアの平和と友好の発展を願うものである」とある。強制連行という字は一言も書かれていない。

 

 ところが県は、この追悼碑の前でおこなわれていた除幕式や追悼集会で「強制連行」という言葉が出たことをもって「市民の憩いの場である公園で政治集会を開くのは、公園の規則に反する」という内容で、追悼碑の撤去を市民団体に求めた。2004年以降、県の方針では10年ごとに設置許可を更新していくというもので、最初の更新となった2014年に上記の理由で「不可」とした。それに対して碑を管理する市民団体が反発し裁判闘争になる。一審の前橋地裁では、県が不許可にしたことに関して「裁量権を逸脱している」という理由で県が負けた。県は控訴し東京高裁は県の主張を認めて逆転判決を出す。そして東京高裁が出した判決を最高裁が支持して確定した。

 

 2014年といえばネット上や街頭で、特定の民族に対する「死ね、殺せ」といった差別的な発言が活発化し可視化されてきた時期だ。ヘイトデモなどが毎週末におこなわれたりしていた。そして群馬県庁に、ヘイト団体から「強制連行を県は認めるんですか」「県の公園のなかで、“強制連行”という極左グループがいます」といった電話、ファックス、ネットでのクレームがあった。それだけでなく追悼碑の周辺では排外的な主張をくり返す差別的な団体が集会を開いて嫌がらせをおこなった。そうした動きが活発化したことによって、県は「憩いの場である公園としてはふさわしくない」と主張した。そして県議会が追悼碑の撤去を求める市民からの請願を採択したりして、結果的に県の主張が通ってしまう。

 

 しかしだ。憩いの場である公園の静穏がさまたげられた事実はない。なぜなら追悼碑を管理する市民団体は、この碑を設置し続け守ることを目的にして、あえてこの場所で集会は開かないようにしたからだ。では騒いだのは誰だったのか。差別、排外的な主張をくり返すヘイト団体だ。全然関係のない慰安婦問題や徴用工の問題を持ち込んだりして追悼碑の周りで騒いで静穏を乱した。問われるべきは、ヘイトスピーチをくり返してきた彼らの方だ。そもそも強制連行というのは政治発言ではなく、事実を事実としてきちんとのべているだけの話だ。僕は強制連行という言葉を撤回する必要はないし、今後も使っていいと思っている。しかし市民団体の場合は、追悼碑を守ることを重要視したのでその言葉を使っていない。

 

 そうした経緯を考えると、追悼碑撤去の合理的理由は存在しない。あまりにも理不尽な歴史否定論者に無用な成功体験を与えただけだ。要するに騒いだ者勝ちだ。先週末、私も追悼碑が撤去される直前に群馬の森に行った。追悼碑の見納めということで200人ぐらいの市民が集まっていた。ところが一般市民だけではなく、右翼が来て騒ぐからと、県警の警察官まで動員されていた。非常に物々しい雰囲気だった。追悼碑があるから騒ぎが起こる、だから撤去した方がいいというロジックが成立してしまう。こうしたことがくり返されていいのだろうか。たまたま公有地という理由でこのような結論になったのかも知れないが、いま社会の空気の一部がこうした方向に向いていることを私たちは十分に警戒しなければいけない。こうした問題に対して、断固としてノーをいい続けなければならない。

 

追悼文拒む東京都知事 壊されたのは社会

 

関東大震災朝鮮人犠牲者の追悼碑(東京都墨田区横網町)

 これと同じような目にあっているのは、東京都墨田区の都立横網町公園にある関東大震災の直後に虐殺された朝鮮人犠牲者の追悼碑だ。

 

 追悼碑が建立されたのは1974年で、このときの東京都知事は社会・共産両党を支持基盤にした革新系の美濃部亮吉さん。一方で都議会は圧倒的に自民党が多かったが、これもまた全会一致で設置が決まった。

 

 毎年9月1日には追悼式がおこなわれ、歴代の東京都知事も追悼文を送ってきた。しかし2016年に小池百合子さんが都知事になって、翌2017年から追悼文を送らなくなった。小池さんは、記者会見で「なぜ追悼文を送らないのか」と問われ「私はすべての震災被害者を追悼しているので、朝鮮人追悼式に追悼文は送らない」とのべた。だが、震災の被害と虐殺の被害はまったく別の話だ。だからこそ、きちんと虐殺で亡くなった方を悼み、二度とくり返さないと誓うべきだった。

 

 そして「関東大震災時の虐殺についてどう思うか」という質問に対して「それは歴史家が紐解くべきだから」と答えている。朝鮮人虐殺は、当事者の証言や記録からとっくに紐解かれている事実だ。にもかかわらず歴史の事実に向き合わず、政治家の仕事を放棄し、ひっくり返したということだ。だからこそ小池さんがやったことは許せない。一度こうしたことを認めてしまうと、社会は坂道を転げ落ちるようにさまざまなことを受け入れてしまう。

 

 例えば一昨年、東京都の人権プラザで開催されたアーティスト・飯山由貴さんの企画展で、制作した映像作品が上映中止となった。なぜか。飯山由貴さんの作品は、関東大震災の朝鮮人虐殺に言及したものだった。作品は1945年に空襲で焼失した精神病院・王子脳病院(東京)の入院患者の診療録に基づくドキュメンタリー調の映像作品だ。関東大震災時の朝鮮人等の虐殺事件を扱うもので、同院診療録に記録された二人の朝鮮人患者の実際のやりとりに基づき、在日コリアンのラッパー・詩人が言葉とパフォーマンスによって彼らの葛藤を現代にあらわそうと試みる姿が記録されたものだ。東京都は上映中止の理由を「趣旨にそわない」と説明した。

 

 ところが東京都人権部から人権プラザの指定管理者である人権啓発センターに送られたメールが流出した。そのメールには「この作品は上映作品としてふさわしくない。なぜなら関東大震災における朝鮮人虐殺のことが書いてあるから」というものだった。つまり「趣旨にそわない」というのも後付けの理屈で、東京都知事は朝鮮人虐殺の追悼式に追悼文を送付していないから、映像作品で朝鮮人虐殺にふれるのはおかしいということだ。つまり小池都知事が追悼文を出さないことが大きな意味を持ち、「表現の自由」にも踏み込むようになるということだ。一つを許せば私たちの社会は大事なものを一つ失ってしまうという悪循環に入っていくわけだ。

 

事実否定し嘘に置換え 日本辱めるのは誰か

 

 東京都杉並区でも同じことがあった。関東大震災100周年ということで昨年9月に区の施設で防災パネル展を開き、地震が起きたときに注意することを書いて展示した。その中の一つに「流言飛語に気をつけましょう」という文言があった。ところがそれを問題視したのが、地元の自民党議員だ。日本政府も東京都知事も朝鮮人虐殺の事実は認めていないのに、なぜ杉並区はその見解を無視するのかと区議会で追及した。そのように全部絡めとられてしまう。

 

 勢いづいたのは、そもそも歴史を修正したい人、いや歴史否定、歴史を無視したい人たちで、彼らにとって小池知事の言葉は力強かった。そのため毎年9月1日におこなわれる朝鮮人虐殺の慰霊祭会場から25㍍離れた同じ公園内で、「虐殺はなかった派」による集会が開かれるようになった。「6000人虐殺の濡れぎぬをはらせ」「日本人を貶める横網町公園、朝鮮人追悼碑を許すな」という横断幕が出ている。

 

 私もこの集会を取材したが、彼らは「朝鮮人が虐殺されたのは嘘で、殺されたのは日本人」といっている。日本の歴史家にはさまざまな人がいるが、保守系、革新系どんな立ち位置であったとしても、関東大震災における朝鮮人虐殺の歴史を否定する人はいない。にもかかわらず、とんでもない説を持ち出して朝鮮人虐殺の事実を否定する人の跳梁跋扈を許してしまった。

 

 そしてどうなったか。そうした歴史否定の動きを危惧して多くの人が「朝鮮人犠牲者の追悼碑を守れ」と集まるようになった。するとヘイト団体や差別的な主張をする団体も集まって騒ぐようになり、警察官が出てくるようになる。そうなると、群馬のように朝鮮人慰霊碑がない方がいいのではという話が出てくるわけだ。われわれはそうしたことを認めてはいけないと思う。騒いだ者勝ちにするなということだ。

 

 必要なのは、私たちが毅然と歴史を直視して、毅然と追悼し祈ることだと思う。こうした歴史否定の動きをきちんと批判をし、守るべきものは守らなければならないと思う。

 

なぜ虐殺は起きたのか 今も残る克明な記録

 

関東大震災でデマを流した大手新聞

 今から100年前の関東大震災のとき、「武装の鮮人、帝都で暴れ回る」「鮮人が井戸に毒を入れた」などのデマ記事をメディアがどんどん流した。これを信じた一部の人々が朝鮮人の虐殺に及んだというのが一つの側面だ。今日、韓国のご遺族の一人が「これは殺人事件だ」と長生炭鉱の被害者のことをいわれた。私はその言葉が胸にグサッときた。私たちは炭鉱水没事故という表現をしているが、ご遺族からすれば、日本の植民地主義に殺されたのだ。関東大震災の虐殺も同じことがいえるのではないか。自警団の素朴な人がどんどん人殺しになっていった。しかし人殺しをつくったのは誰なのか。それを紐解くひとつのカギが千葉県船橋市にある。

 

 船橋市の行田公園の一角に「船橋無線塔記念碑」がある。ここには終戦時まで海軍の無線塔がおかれ、記念碑にはその「功績」が綴られている。太平洋戦争の開戦を伝える暗号伝文「ニイタカヤマノボレ」もここから発せられたことや、関東大震災時には全国にSOSを出し、多くの救援物資が集まったと書かれている。ただ本当に書かなければならないことは書かれていない。1923年9月3日に内務省はここから各地の地方長官あてに「東京付近の震災を利用し、朝鮮人は各地に放火し、不逞の目的を遂行せんとし、現に東京市内に於いて爆弾を所持し、石油を注ぎて放火するものあり。既に東京府下には一部戒厳令を施行したるが故に、各地に於いて十分周密なる視察を加え、鮮人の行動に対しては厳密なる取締を加えられたし」という伝文を流した。大震災の混乱に乗じて朝鮮人が暴動を起こしているというガセ伝文だった。

 

 つまり国家がデマを流し、「不逞鮮人」という言葉を使って朝鮮人を殺していいと間接的に指示したことになる。そしてメディアもデマを流し煽って、自警団が結成され虐殺に及んだということだ。そして真っ先に殺されていったのは船橋送信所近くの朝鮮人だった。

 

 船橋送信所から離れていない場所の中山競馬場の北方十字路のそばにある駐車場はかつて芋畑だったが、実は虐殺の場だった。そして通称「なぎの原」と呼ばれる住宅街のなかの空き地でも6人の朝鮮人が殺されている。

 

 住民の証言をもとに遺骨が掘り出されて近くの寺に納められ、関東大震災朝鮮人慰霊の碑が建てられ、地元の人も含めて追悼式がおこなわれている。

 

 この近くには陸軍習志野収容所があった。この収容所は第一次世界大戦のときにドイツ兵を収容したことで知られる。関東大震災のときは多くの朝鮮人を保護するという理由で収容した。記録を調べてみると、暴れている朝鮮人を暴動の首謀者と勝手に見なして処刑しており、近隣の村々に朝鮮人を数人単位で「配給」している。つまり村人たちに朝鮮人を「払い下げ」、殺させたということだ。そのことは多くの人が証言を残している。

 

 例えば、「なぎの原」の原っぱに朝鮮人を連れて行った人の日記だ。「午前4時ごろ、バラック(収容所)から鮮人をくれるから取りに来いと知らせが来た。朝3時頃出発して鮮人をもらいに行く。9時ごろに2人もらってくる。なぎの原で穴を掘らせて、座らせて首を切ることに決定……」。こうした記録が残っている。民間の人が深掘りし、きちんと記録や証言を集め、ようやく明らかになったことで、『払い下げられた朝鮮人』というドキュメンタリー映画にもなった。

 

 虐殺の証言は多く残っている。代表的な証言を紹介したい。日本で昭和のコメディアンとしてもっとも有名だった「バンジュン」こと伴淳三郎は朝鮮人虐殺を見ており、自伝にこんな証言を残している。

 

 「阿鼻叫喚の地獄絵図だった。朝鮮の人と思われる死体が地面にずらーっところがっている。その死体の頭へ、“このやろう、このやろう”と石をぶつけてめちゃくちゃにこわしている。生きた朝鮮の人をつかまえると、背中から白刃を斬りつける。男はどさりと倒れる。最初白身のように見えた切り口からしばらくしてびやーっと血がふくんだ。おれはそれを目撃して震え上がっちゃった」「朝鮮の人はたまらず屋根へ逃げのびる。それを下から猟銃でパパパンとして撃ち落とす。その死体めがけて群衆が殺到する。手に手にもった石を死体めがけてなげつける。死体はたちまち蜂の巣のようにめちゃめちゃになってしまう」。これがバンジュンがみた風景だ。このなかでハッとさせられる表現がある。「こわしている」というところだ。

 

 戦後の国策パルプ会長の南喜一さんは、大震災当時は町工場の親父で四ツ木橋付近に住んでいた。自伝のなかでは、朝鮮人が襲撃するという噂が飛び、署からの命令で自警団が護身用の鉄棒、竹やり、天秤棒を持つことになった。夜に入ると道路に鈴がついた縄が張りめぐらされた。自警団は鈴の音が鳴ると飛び出していって、“こら、朝鮮人だろ。さしすせそ、ぱぴぷぺぽをいってみろ”と叫んだ。この騒ぎで殺された朝鮮人は随分多かった、と書いている。実は彼はこのときは自警団の団長でもあったため、警察からどんな指示があって何をし、どのように朝鮮人を引き留めたかを詳しく知っていた。そして彼は大震災のときに亀戸警察署に弟が殺されるという経験をしている。震災のどさくさのなかで社会主義者、労働組合活動家を捕えて殺した亀戸事件だ。南さんはこの経験によって共産党に入り、一時期は活動家として非合法活動にかかわるようになった。戦後は転向したのだが、関東大震災で朝鮮人が虐殺されたこと、自分の弟が殺されたことをきちんと記録している。

 

 当時の人々の証言や記録のなかに「トビ口で人を殺した」という表現が多く出てくる。日本刀や竹やりは想像がつくが、トビ口とは一体何なのか。調べてみると東京都の四谷にある東京消防博物館で見つけた。棒の先に鉄の分厚い板がついたものだ。トビというのは消防用語で、「破壊消火のために使われた」ものだそうだ。江戸時代などはポンプ消火ではなく、周りの家を壊して延焼させないことが一番大切なことだった。そのためにトビの用途は一つだけ、家屋を壊すことだった。そこで伴淳三郎の「こわしている」という言葉がシンクロする。関東大震災の朝鮮人虐殺というのは、切ったとか、殺したなどの言い方をしているが、それはまさに人間を壊していた。殺す側も壊れていたし、結果的に自分が住んでいた地域を壊し、社会全体を壊していった。これが関東大震災における朝鮮人や中国人の虐殺だ。

 

 虐殺の爪痕は、韓国の慶尚南道の小さな街にもある。そこには関東大震災のときに荒川近くで虐殺された朝鮮人の小さな墓がある。日本に自ら出稼ぎに行って殺されており、中に遺骨はなく、亡くなった方が若い頃に着ていた官服(民族衣装)が入っている。孫にあたる男性に取材で「悲しいですか、悔しいですか」と聞くと、男性は「祖父が死んだのは100年前。顔も見たことがない祖父を懐かしむことはないし、悲しいかと問われても実感はない。ただ悔しいとは思う。日本政府は虐殺に言及しないし、現在の韓国政府もそうだ。見捨てられていくことがたまらなく悔しい」と話された。いつか朝鮮人虐殺そのものがなかったことにされてしまうのではないかという危機感があるという。正直な気持ちだと思う。その思いに日本社会は、私たち日本人はどう答えていくべきなのだろうか。

 

レイシズムとの決別を この社会を守る為に

 

天理市が設置した柳本飛行場説明板の現在の姿(安田氏提供)

天理市民の手によって設置し直された説明板(安田氏提供)

 他にも歴史を伝えるものが消されている。奈良県天理市の柳本には軍がつくった柳本飛行場があった。地元住民も勤労奉仕で動員され、なによりも3000人といわれる朝鮮人が働いていた。柳本の駅前には慰安所が何カ所かあり、朝鮮人女性が働かされた。そうした歴史をふまえて天理市は「多くの朝鮮人が強制連行によって働かされていた。慰安所が設置され、そこで朝鮮人女性が強制連行された事実もある」と書いた案内板を設置していた。ところが差別と排外主義を流布させている人々が、「強制連行なんてなかったでしょ」といって天理市にクレームをいい、今この案内板は厚手のカバーでグルグル巻きにされてないものにされている。天理市では市民が抵抗して新しい案内板がつくられている。

 

 もう一つ、宮城県栗原市の大林寺に伊藤博文を暗殺した「安重根記念碑」がある。栗原市内には、「安重根記念碑はこちら」という県の案内板があったが撤去された。これも市民と称する人間からの「安重根はテロリストだ。テロリストを県が擁護するのか」というクレームによるものだ。

 

 宮城県栗原市の大林寺は、旅順の監獄で安重根が死刑になるまで担当看守だった千葉十七さんという人の菩提寺だ。実は千葉さんは、最初は安重根を憎んでいたが安重根の人柄にふれ、すっかり心酔してしまった。処刑されるときに一番悲しんだのが千葉さんで、安重根が千葉さんに書を贈り、その書をもって栗原市に帰りお位牌もつくった。安重根の書を千葉家では大事に保管し、生誕100年のときに千葉さんの遺族が韓国に連絡をとり、安家との交流が始まり、安重根の記念碑が立ち、隣に千葉さんのお墓もある。それによって韓国から観光客が訪れたりもしている。ちなみに記念碑には「男、安重根はすばらしい。男、安重根のようにわれわれ日本人も生きたいものなのだ」という趣旨の碑文の最後に「宮城県知事」とある。当時の知事は自民党の情に厚い山本壮一郎という人で、人種や民族によって何かを排除するという人ではなかった。

 

 群馬の慰霊碑を粉々にするきっかけをつくり、天理市の記念碑にクレームをつけた団体と、東京で朝鮮人虐殺はなかったと主張しているのは同じグループだ。いつの時代も、隣国との友好や伝統を壊すのは彼らだ。壊しまくる者を「保守」と呼ぶのは日本が特殊なのかも知れない。日本社会にある植民地主義と差別と偏見から、私たちは守るべきものをしっかりと守らなければならないと思う。

 

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 やすだ・こういち 1964年生まれ。週刊誌記者を経てフリーランスに。現在は主にヘイトスピーチ、外国人労働者、歴史修正問題などに関する取材をおこなう。著書に『ネットと愛国』(講談社)、『ルポ差別と貧困の外国人労働者』(光文社新書)、『ヘイトスピーチ』(文春新書)、『「右翼」の戦後史』(講談社現代新書)、『団地と移民』(KADOKAWA)など多数。 

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