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感染症法の罰則規定は何を意味するのか―公衆衛生の歴史からみる問題点 日本図書館協会図書館の自由委員会委員長・西河内靖泰氏に聞く

 新型コロナウイルスの蔓延によって世界中の人々の生活や経済が混乱している。日本では国民の命や生活、医療を守るべき政治が機能せず、医療現場で患者の受け入れが困難になるなどの医療崩壊が起こり始めている。一方で、今国会では感染症法にコロナ患者が入院を拒否した場合の罰則規定を盛り込むなど、逆にコロナ収束を困難に導くような愚かな政策がおこなわれようとしている。今回、元保健所職員として公衆衛生行政の第一線で感染症対策にかかわってきた保健医療社会学・社会医学の研究者であり、現在も全国肝臓病患者連合会会長や広島県難病団体連絡協議会顧問を務めている西河内靖泰氏(日本図書館協会図書館の自由委員会委員長、元・広島女学院大学特任准教授)に、懲罰化を盛り込んだ感染症法の改正案が何を意味するのか、そしてコロナ禍で見えてきた日本の政治、コロナがあぶりだした社会の姿とこれからの社会のあり方などについて語ってもらった。

 

感染症法の基本理念

 

 はじめに感染症法(感染症の予防及び感染症の患者に対する医療に関する法律)の前文を紹介する。「人類は、これまで、疾病、とりわけ感染症により、多大の苦難を経験してきた。ペスト、痘そう、コレラ等の感染症の流行は、時には文明を存亡の危機に追いやり、感染症を根絶することは、正に人類の悲願と言えるものである」「一方、我が国においては、過去にハンセン病、後天性免疫不全症候群の感染症の患者等に対するいわれのない差別や偏見が存在したという事実を重く受け止め、これを教訓として今後に生かすことが必要である。このような感染症をめぐる状況の変化や感染症の患者等が置かれてきた状況を踏まえ、感染症の患者等の人権を尊重しつつ、これらの者に対する良質かつ適切な医療の提供を確保し、感染症に迅速かつ適確に対応することが求められている」

 

 以上は抜粋だが、「患者の人権の保護を優先し、人権を尊重すること」「患者に対して良質で適切な医療の提供をおこなうことと、そのための医療体制を整備すること」という基本的な理念が前文にすべてこめられている。

 

 ところが18日に開会した通常国会では、感染症法を「改正」し、新型コロナウイルス感染症の患者・感染者が入院措置や検査を拒否した場合などに刑事罰を与えること、感染に関する情報提供を拒否した場合にも罰則を科すという内容を盛り込むという。とんでもないことだ。それは感染症法の理念を根本的に覆すことになる。

 

 感染症法の基本理念の背景にあるのは、強制隔離政策によって患者らが多大な人権侵害を受け、偏見差別を深刻化させる結果となったハンセン病問題の歴史に対する反省だった。ハンセン病は国の隔離政策の下、戦前から戦後間もなくにかけて各地で患者を療養所に収容する「無らい県運動」が展開された。感染の危険性が喧伝(けんでん)され、患者やその家族が学校に通えなくなったり、就職や結婚に支障が生じたりしたため、家族は身内に患者がいることを隠し、患者の多くは療養所で偽名を使わざるをえなかった。

 

根拠もなく伝染病として強制隔離を定めた「らい予防法」に抗議するハンセン病患者(1953年)

 ハンセン病は、らい菌による感染症で、その感染力は弱く致死率もごく低いものだったが、かつては有効な治療法がなく、病気への社会不安が強かったという点では新型コロナと共通している。そして、この当時の新聞などは「患者を野放しにしてけしからん」と煽って、マスコミが隔離強化に誘導したことも歴史の大きな教訓だ。政治もマスコミも、また同じ過ちを犯すのかということだ。

 

感染症法「改正」の誤り

 

 この度の法「改正」の動きに対して、一般社団法人日本医学会連合(門田守人会長)と一般社団法人日本公衆衛生学会、一般社団法人日本疫学会が緊急声明を発した。「罰則を伴う強制は国民に恐怖や不安・差別を惹起することにもつながり、感染症対策をはじめとするすべての公衆衛生施策において不可欠な、国民の主体的で積極的な参加と協力を得ることを著しく妨げる恐れがある」「刑事罰・罰則が科されることになると、それを恐れるあまり、検査を受けない、あるいは検査結果を隠蔽する可能性がある。結果、感染の抑止が困難になることが想定される」と呼びかけている。

 

 コロナ感染者や患者に対する罰則をもうければ、逆に感染は収まらない状況になるだろう。感染したら差別されるとわかっていれば、自覚症状が出たとしても検査に行かず隠すようになる。本末転倒なことを引き起こしてしまう。そもそも、国の役割は、患者に対しては適切な医療を提供できる環境を整えること、また飲食店などの営業制限など人々に犠牲を求めるのであれば、安心して暮らせるための生活を補償することのはずだ。

 

 昨年、ホームレスには住民登録がないという理由で定額給付金の10万円が配られなかったり、文科省が昨年五月にコロナ対策として大学生を支援するために創設した学生支援緊急給付金(一人につき10万~20万円)が、朝鮮大学校は対象から排除された。

 

 このこと自体、政治の根本にあるべき「この国に生きる人の人権を保障する」という基本が抜け落ちていることから起こる、この国の政治による差別ではないだろうか。政治は「国民の人権を守り保証する」ためにあり、感染症法の理念もそれに基づいている。国が国民を規制したり差別するなどもってのほかなのだ。

 

 具体的に考えると、PCR検査体制を強化していくとともに、検査をして陽性者が出た場合には、その方たちの人権を守るための体制を整えるのが当然の施策だ。毎日、感染者の数でマスコミは大騒ぎしているが、疫学的な予測からは、東京では1500人の陽性者どころか、実際はその10倍以上の1万5000人ぐらいの陽性者がいると考えておかしくない。検査を受けて、陽性であっても人権が守られ安心できる環境と、国民の側に正しい知識と理解を広めることが感染症法にある基本的な考え方だ。それが感染症の広がりを防ぐことになる。

 

罰則が意味すること

 

 マスコミの世論調査では、感染症法に懲罰を盛り込むことについて「50%以上が肯定している」という結果が出ていた。その結果自体がとてもおそろしいことだ。国や自治体のいうことを聞かない病院や飲食店は名前を公表し罰金を科すとか、入院を拒否したコロナ感染者に罰則を科すことを法律で決めることは、「みんなでその人や店(病院)を攻撃してください」「差別しましょう」と煽ることを正当化するのと同じだ。そういったことをマスコミが堂々と煽り、国が法整備をしていく状況は非常に危険だ。

 

 人権を真っ向から否定するかのようなこうした動きは恐ろしいことであり、日本医学会連合や日本公衆衛生学会や日本疫学会などがいちはやく緊急声明を発したのは当然のことだ。マスコミはじめ政治家も、感染症やそれに関する歴史を正しく学んでいれば、今回のような感染症法の改正案は出てこないだろう。歴史や哲学を学ばない人たちによる政(まつりごと)がいかに愚かな結果を生み出すかだ。このような政治に対して、それ以上に知性を蓄えて説得力をもって闘える野党の存在が望まれる。過去に学んでこそ未来を語ることができる。歴史を知る者こそ強いということだ。感染症法の法「改正」は、全面的におかしいということを、私たちは声を大にして訴えなければならない。

 

 恐怖という心理は、差別と偏見を生む。それを克服する道は正しい知識を持つことだ。感染症法は、国や地方公共団体の責務として、感染症に関する正しい知識の普及に努めることをうたっている。そしてこの法律の大事なところは、国民の責務として「正しい知識を身に付けることは国民自身の責任である」と書いているところだ。私たち国民自身が正しい知識を学ぶことが、感染症と闘う唯一の力だということだ。テレビでは、感染症の歴史について、ろくに勉強していないコメンテーターたちが発言しているが、それを鵜呑みにするのではなく自分で学ぶことが私たちの責務だ。

 

日本の感染症・公衆衛生の歴史に学ぶ

 

 日本の歴史を少しさかのぼると、江戸時代の政策でいま再評価されているのが、徳川綱吉の「生類憐れみの令」だ。「天下の悪法」ともいわれてきたが、実はそれは狂犬病対策の一環であったと再評価されている。保護する対象は、捨て子や病人、高齢者、そして動物だった。綱吉は異常な“動物愛護”の権化のようにいわれてきたが、動物を殺傷することを戒めたのは狂犬病対策でもあり、世界史的にも当時としては画期的な公衆衛生、福祉施策だったということだ。

 

 近現代史、特に昭和の時代は感染症対策の時代だった。占領下におけるGHQの公衆衛生事業の歴史を知っておく必要がある。GHQは戦争が終わり大量の復員兵が海外から日本に戻ってくることで感染症が流行することを警戒して、強制的な予防接種対策をとった。この時代は現在のように注射器を一人一人替えるということはなく注射器の使い回しがおこなわれたため肝炎が蔓延した。B型肝炎訴訟で、国の責任が認められ補償金を出しているのは、そもそもの原因をつくったのがアメリカだということがはっきりしているからだ。

 

ライシャワー事件を報じた当時の新聞(1964年)

 そして日本の血液行政が見直されるきっかけとなったのが、駐日米国大使を務めたエドウィン・O・ライシャワーが日本人少年にナイフで刺され重傷を負い、出血がひどく、外科手術と輸血によって一命をとりとめたが、輸血後に肝炎を併発したことだ。

 

 当時の日本の輸血は売血(みずからの血液を有償で採血させる行為。1950年代から1960年代半ばまで輸血用血液の大部分を民間血液銀行が供給していたが、それは売血で賄われていた)に頼っており、品質管理はされておらず、各種の肝炎ウイルスやエイズウイルスが含まれていないかを厳重にチェックする検査体制が整えられている現在と違って、感染症の検査はまったくおこなわれていなかった。その事件が大きく影響して、日本の血液行政が見直されて売血による輸血もなくなった。アメリカに対して日本は戦後ずっと頭が上がらない関係だということがここでもわかる。そういう歴史を知っていれば、いろんなことが見えてくる。

 

 また戦後日本の公衆衛生、保健行政で最も適確な対応がされたと評価されているのは、1960年代のポリオ(急性灰白髄炎・小児麻痺)の流行のときだ。1960年、日本ではポリオが北海道を中心に全国的に流行した。私自身は当時小学生で北海道にいたが、クラスに小児麻痺の子が1~2名はいたことを記憶している。日本政府は与党からの批判もありながらも、1961年ソビエト連邦(ソ連)から経口ポリオ生ワクチンを緊急輸入し、それによって流行は抑えられた。当時は冷戦下で、東側のソ連からの輸入決定は、西側陣営であった日本としては、政治的には非常にリスクがあるなかだった。当時の厚生大臣の古井喜実は「責任は大臣が持つ」として、この政策を決定したのだ。

 

 批判をされたとしても、国民の命と人権を守るためにきちんと政策を実行する。自分がどうなろうが人々のために働けるかどうか、それが政治家の役割だ。現在のコロナ禍のなかでPCR検査を強化する体制を整え、陽性者を受け入れる医療体制を再構築し、生活の保障をおこなうなどの対策は待ったなしだ。スローガンだけでなく実際に実行するためには財源が必要だ。そのためには国債発行しかないだろう。

 

 その点でいえば、江戸時代に岩国藩は領内で疱瘡が流行した際に、単に隔離を強制するだけにとどまらず、病人や看護人、同居人などの隔離費用を生活費も含めて領主が負担した。また米沢藩の上杉鷹山は、役所を動かしながら生活困窮者を洗い出し、支援した。このとき鷹山は、「御国民療治」といい、大切な藩の領民は必要な医療を受けなくてはならないという強い意志に基づいて、手をうった。

 

 感染症流行時の「生活支援」「医療支援」は、国民として当然、受けるべき権利だ。国民は税金をそのために払っている。観光キャンペーンに兆単位の税金を使いながら、コロナ患者を看る病院や看護師の困窮に無策、「遅延」状況は、危機的な政治状況をあらわしている。

 

 新型コロナウイルス感染症対策への政府の後手後手の対応は、すぐに結果が見える政策ばかりに投資し、表に見えない部分を大切にしない「今だけ、金だけ、自分だけ」の政治しかできないからだ。それは知性のなさからくる。このたびの感染症法の罰則をともなう改正などは、知性を失って権力を振りかざす政治の典型だろう。

 

学ぶことの意味~現在と未来に応えるために

 

 世界中で新型コロナが広がるなかで、ワクチン開発をめぐって世界の製薬会社メジャーが競い合っている。世界中の人たちの命と健康にかかわるような事態を前に、この期に及んで強欲資本主義が邪魔をしている。ワクチン開発をする製薬会社メジャーは、自分たちの金もうけが目的だ。決して、人類のためが第一義ではない。

 

 例えば、ミドリ十字という製薬会社は、細菌戦に使用する生物兵器の開発を手掛けていたという、あの731部隊の生き残りの人物の流れを汲む企業といわれる。この製薬会社が売血や血液製剤によるエイズ薬害被害でどのようなことをしたのかを見ていけばわかるはずだ。彼らは知識を持っていたが、その知識を活用するための倫理感や知性が問題であったのだ。知識は知性があって生きるものだ。大学教育をめぐって人文系を軽視する動きがあるが、例えば医学の専門知識を活かすには、過去の多くの人々の経験や失敗を知ること、多くの文学者が残した闘病記から学んで知性を磨かなければ、知識は活かされない。時の為政者にとっては知性のある人間は都合が悪いのだろうが、そのやり方は売国の思想だ。「保守」を名乗りながら売国的な政策をおこなうという暗澹たる状況のなかで、その危機に立ち向かうには、人々が一人一人学び続けることで知性を磨き、現状を変えていくことしかない。

 

 私たちは今、新型コロナウイルス感染症という見えないウイルスを恐れ、それがもたらす未知の世界に不安を増幅させている。未知なるものへの不安から、他者の排除や攻撃、差別は生まれる。その不安は私たち自身が感染症の歴史や知識を広く学ぶことでしか解消されず、未来を見通すことはできない。現在を生きるためには、知性が必要なのだ。そして知性を身に付けることが、物事を変えていく力だ。

 

 私は、あるとき小学生に「なんで勉強するのですか?」と聞かれた。それに対して「歴史や社会のいろいろなことを広く知らなければ多くの人が犠牲になる。それを防ぐために勉強するんです。それは過去の人から私たちに課せられた義務であると同時に、未来の自分たちの子孫に対する義務ですよ」と応えた。大学の講義でもそう話している。

 

黒馬物語(アンナ・シュウエル作)

 私は小学生のときに『黒馬物語』(アンナ・シュウエル作、土井すぎの訳、岩波少年文庫、1953年8月)という小説に出会った。その中にあった「知らないってのは、この世の中じゃ、悪意のつぎにわるいことだってことを、おまえ、知らないのかね?」(「知らない」ということが、どんなことをもたらすかを、この言葉の語り手はさらに示していた)という言葉が心に残っている。知らないことを自覚し知る努力、学ぶ努力をし続けることが人間に課せられた義務なのだ。

 

 学び続けることを貫いたのが山口県の生んだ偉大な先達である吉田松陰だ。吉田松陰は野山獄に囚われても希望を捨てることなく本を読み、勉強し学び続けた。知性の力によって人の魂は救われる、知性をみがくことによってよき感情が生まれ、人間性をとり戻すことができることを実証した。絶望のなかで前向きに生きる力や希望は、学ぶことから生まれてくる。それは今、私たちがコロナ禍を乗りこえて、この先の未来を前向きに生きるうえで学ぶべき姿ではないだろうか。

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この記事へのコメント

  1. 岩間和枝 says:

    素晴らしい記事でした。過去からの教訓で作成された感染症法。それを「改正」する知恵の無さ。野党には本当に頑張って欲しいものです。この全文に多く使われている言葉は知性や知恵、知識ですが、愛情もとても感じられ、感謝の気持ちが湧きます。それから「黒馬物語」が紹介されているのが嬉しかった。私は日頃、政治家は黒馬物語を読むべきだと、周りに言っているのです。アベ大事に政権の時には、黒馬のこんなセリフを思い出しました。「こんな人間は見たことがありません」有能な馬丁との大嘘で雇われたものの、馬の世話などできず、馬の脚を腐らせてしまうような男の事でした。

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