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感染症と格闘した人類の歴史 研究者らの著作から学ぶ

 新型コロナウイルスの感染拡大が世界を覆い、日本では緊急事態宣言の解除へ進んでいるものの、秋には第二波も予測されるなど不安な日々が続いている。こうしたとき、歴史の教訓をひもといて先人たちの経験を学び、将来に役立てることは意義のあることだ。人類と感染症との出会いは文明の発祥にさかのぼるが、感染症とはなにか、人類は長い歴史のなかで感染症とどのように格闘してきたか、そこから今どのような教訓を引き出すべきかについて、感染症の研究者や歴史学者が著した著作をつうじて考えてみた。

 

 文明の誕生が人類に感染症をもたらした。長崎大学熱帯医学研究所教授の山本太郎氏は、『感染症と文明』(岩波新書)のなかで次のようにのべている。

 

 狩猟と採集を中心とする移動生活から、農耕を中心とする定住生活に移ったことは、人類にとって大きな進歩だった。食料の増産と定住は人口増加をもたらし、文明を育んだ。だがそれは、人類に多くの試練ももたらした。感染症もその一つである。

 

 紀元前3000年頃、チグリス川とユーフラテス川にはさまれたメソポタミアで流行したのは麻疹(はしか)で、イヌあるいはウシに起源を持つウイルスが種をこえて伝染した結果、ヒトの病気となった。それは、メソポタミア文明が人類史上はじめて、感染症の持続的流行を維持するために充分な人口を持っていたからだ。麻疹が社会に定着するためには、最低でも数十万人規模の人口が必要だという。それ以下の人口集団では、感染は単発的なものにとどまり、恒常的に流行することはない。

 

 そして、農耕定住社会への移行によって次のような変化が起こったことを見逃すことはできない。まず、人々が排泄する糞便が肥料として再利用されるようになり、寄生虫疾患を増加させた。次に、貯蔵された作物はネズミなどの餌となり、ネズミはノミやダニを通じてペストなどの感染症を人間社会に持ち込んだ。そして野生動物の家畜化は、動物起源のウイルス感染症--天然痘はウシ、麻疹はイヌ、インフルエンザは水禽(アヒル)、百日咳はブタあるいはイヌに起源を持つ--を人間社会に持ち込んだ。

 

 46億年といわれる地球の歴史のなかで、微生物(ウイルス、細菌など)は30億年の歴史を持つが、それまで野生動物を宿主としていた病原体が、文明の誕生によってヒトという新たな宿主を得たことになる。それによってヒトの感染症の種類は一気に増加した。

 

 しかし、感染症が文明を完全に破壊することはなかった。感染症を保有する社会は、その感染症の流行によって一定程度の人口が恒常的に失われるが、生き残った人々は免疫を獲得し、免疫によってそれ以後の感染を免れるということをくり返してきた。流行が進展すると免疫を持たない人の割合が低下し、そして流行は終息する。最後まで感染しなかった人は、すでに感染した人々によって守られたといえる。これを集団免疫と呼ぶ。

 

 一方、感染症を保有しない社会(恒常的流行のない社会)では、感染症が日常的に被害をもたらすことはない。だがいったん感染症がその社会に持ち込まれると、その被害は、感染症を保有する社会とは比較できないほど大きなものになる。

 

ペスト 欧州の3分の1が死亡

 

 それぞれの文明は、風土や歴史に応じた固有の伝染病を持っていた。ペスト菌は中国起源で、紀元1~2世紀頃に成立したシルクロードを通じてユーラシア大陸の両側に広がった可能性があるという。

 

 ウィリアム・H・マクニールの『疫病と世界史』(上・下、中公文庫)は、このペストと人類との攻防を描いている。ペストの流行は7世紀の随の崩壊や、8世紀の東ローマ帝国の衰退の一因となったが、その後の300年間は歴史から姿を消していた。

 

 13世紀になると、ジンギスカンのモンゴル帝国がアジアを横断する陸上の隊商交通をさらに発展させ、シルクロードよりもっと北方の大草原地帯にまで広げた。モンゴル帝国は今の中国とロシアのほぼ全土と、中央アジア、イラン、イラクを包含しており、1日100マイルも走り続ける騎馬飛脚や遠距離を行き来する隊商や軍隊の織りなす一大交通網をつくりあげた。

 

 それを契機にヒマラヤ山麓に根付いていたペスト菌が、広大な大草原の野生の齧歯類(げっしるい。とくにクマネズミ)と接触し、クマネズミを宿主にして広がった。ペスト菌を保有するネズミの血を吸ったノミがヒトを吸血すると感染が成立する。隊商がペスト菌に感染したネズミとノミを運び、ペストは中国やインドへ、そしてヨーロッパと中東のほとんどすべての地域へと、隊商基地網や船舶航路網を通じて広がった。

 

14世紀にヨーロッパで大流行したペスト。犠牲者の棺を運ぶ村人を描いた絵画

 ヨーロッパでは1347年からの4年間で、当時の全人口の約3分の1、約3000万人がペストで死んだといわれ、黒死病といって怖れられた【地図参照】。同時期には中国でも人口が半減するほどのペストの流行が起こっている。ペストは17世紀まで随時突発し、1年間で、ある市の人口の3分の1から半分もの多数の生命を奪い去る事態は普通のことだった。一方、それによってハンセン病は急減したという。

 

 14世紀当時の様子をジョバンニ・ボッカチオの『デカメロン』が次のように伝えている。

 

 「1日千人以上も罹患しました。看病してくれる人もなく、何ら手当を加えることもないので、皆果敢なく死んで行きました。また街路で死ぬ人も夜昼とも数多くありました。また多くの人は、家の中で死んでも、死体が腐敗して悪臭を発するまでは、隣人にはわからないという有様でした」

 

 「墓地だけでは埋葬しきれなくなりまして、どこも墓場が満員になると、非常に大きな壕を掘って、その中に一度に何百と新しく到着した死体を入れ、船の貨物のように幾段にも積み重ねて、一段ごとに僅かな土をその上からかぶせましたが、仕舞には壕も一ぱいに詰まってしまいました」

 

 ペストはペスト菌によって引き起こされる感染症である。腫脹したリンパ腺がこぶし大にふくれあがる腺ペストは、全身の皮膚に出血性の紫斑があらわれるため、黒死病と呼ばれた。抗生物質がない時代、致死率は50%をこえた。一方、飛沫感染する肺ペストは、血痰や喀血といった肺症状が見られ、無治療下での致死率はほぼ100%だった。そうした状態は1894年に北里柴三郎とアレクサンドル・イェルサンがペスト菌を発見し、1943年に抗生物質ストレプトマイシンが発見されて改善された。現在では抗菌剤で適切に治療すれば治癒する。

 

天然痘 先住民を征服する武器として使われた歴史

 

 先の2冊の書籍を読むと、感染症は他の民族を侵略し支配する武器としても機能したことがわかる。大航海時代の15世紀、アメリカ大陸に侵攻したスペインがヨーロッパの多種多様な感染症を持ち込み、免疫のない先住民のインディオをさんざんな目にあわせたという記録が残っている。アメリカ大陸の先住民は、ヨーロッパ人が四〇〇〇年もの長い文明の歴史を通じて少しずつ遭遇を重ねてきた多種多様な感染症にいきなりさらされたとき、なすすべを持たなかった。

 

 なぜ、スペインのエルナン・コルテスが600人に足りぬ軍隊で、数百万人の民を擁するアステカ帝国(現在のメキシコ)を征服できたのか。それは天然痘を持ち込んだからだ。アステカ人がコルテスとその部下を最初に首都から追い払った4カ月後、天然痘が突発し、抵抗力を持たない先住民の3分の1が死んだという。

 

 ピサロがインカ帝国(現在のペルー)を侵略したときも、彼らは天然痘を持ち込んだ。インカの王は軍隊の指揮をとっていたときにこの感染症で死に、王位継承者も死に、正式の後継者がいなくなった。

 

 一方、スペイン人は子どもの頃感染して免疫を持っていたので、何の影響も受けなかった。それを目の当たりにした先住民にとって、土着の神々の権威は崩壊し、相手の人数がどれほど少なく、その行為がどれほど卑劣であっても、その白い皮膚の人間の命令に従って改宗せざるをえなかったのだとマクニールは見ている。

 

 侵略直前、アメリカ大陸の先住民の総人口は約1億人で、うち3000万人がメキシコの文明中心地に、アンデスの諸文明圏にも同数が住んでいたという。それが侵略後の120年(人間の5~6世代)の間に10分の1になったというのだからすさまじい。

 

 また、大航海時代のハイチでは、先住民であるタイノ・アラクワ族約50万人が暮らしていた。そこへヨーロッパ人が天然痘を持ち込んだ。そしてタイノ・アラクワ族の絶滅が奴隷貿易の始まりにつながった。フランスはアフリカから黒人奴隷をハイチに運び、ハイチから砂糖をヨーロッパに運んで、フランスの資本家が莫大な利益を得るとともに、ハイチを貧しい状態に固定化した。このハイチの貧困は現在まで続き、エイズや結核という感染症の土壌を提供し続けている。「貧困の病」といわれるゆえんである。

 

結核やコレラ 重要な公衆衛生の改善

 

 産業革命をへて工業都市が成立すると、結核が19世紀ヨーロッパの最大の感染症となった。結核菌は地上でもっとも古く、またもっとも広く遍在している細菌で、石器時代やエジプト古王朝時代の人骨から結核に冒された痕跡が発見されている。そして19世紀になり、汚れた大気、密集した都市での暮らし、換気の悪い工場での長時間労働が、結核菌の感染拡大の土壌をつくった。

 

 しかしこの150年間、結核死亡者数は一貫して減少してきた。それは、ロベルト・コッホが結核菌を発見したこと(1882年)、BCGワクチンが開発されたこと(初めての人体投与は1921年)、抗生物質が発見され導入されたこと(1943年)などが貢献したことは疑いない。

 

 ただ、こうした近代医学導入以前に結核の死亡率は減少し始めている。なぜか? その原因として、栄養状態の改善、居住環境の改善、労働環境の改善、あるいはその複合効果が指摘されている。

 

 東京都立大学教授の詫摩佳代氏は『人類と病』(中公新書)のなかで、公衆衛生の重要性を次のように指摘している。

 

 激しい嘔吐と下痢をともなって著しい脱水症状に至るコレラは、もともとインドとバングラデシュの間のベンガルのデルタ地域に古くからあった風土病だが、19世紀になって世界に感染拡大した。そしてヨーロッパで猛威を振るい、致死率は50~70%に達した。それも産業革命をへた人口の急増と都市への集中が背景にあった。

 

 当時、感染のメカニズムは解明されていなかったが、不衛生な環境がコレラの感染拡大と何らかの関係があり、それを改善する必要性は認識されていた。

 

 19世紀半ばのパリでは、下水道はあったが各家庭のトイレはすぐに詰まってしまい、糞便が円柱状に堆積して便座の近くまで迫り、汚物と臭気が家中にあふれていた。また下水道はしばしば氾濫した。そうした不衛生な状態はコレラやペストの流行にはもってこいだった。パリではコレラの三度の流行を経験して、上下水道の整備に本格的にとりくむことが決定され、コンクリートに覆われた地下暗渠(きょ)網が完成した。

 

 さらに感染症は国境をこえる。スエズ運河の開通後、マルセイユで流行していたコレラがインドやエジプトで流行していたコレラと同一の菌であること、イギリスの船舶がインドからコレラ菌を運んでいることがわかり、それがきっかけとなって初の国際衛生協定(1903年)ができた。それは国際機関・国際公衆衛生局をパリに設立することに発展し、ペスト、コレラ、発疹チフス、黄熱病の発生を監視し、ヨーロッパ共通の衛生規定や隔離検疫制度をもうけるようになった。それがWHOに引き継がれて今日に至る。

 

 詫摩氏は、コレラとペストを通じて人類は、科学技術(医学)と公衆衛生インフラの重要性、国際的な衛生管理の枠組みの必要性を認識したとのべている。

 

「スペイン風邪」 致死率高かった第二波

 

 第一次世界大戦末期の1918年から20年にかけて、三度にわたって流行した「スペイン風邪」は、世界全体で5000万人とも1億人ともいわれる死者をもたらし、記録のあるかぎり人類の体験した最大のパンデミックとなった【表参照】。それは第一次大戦の死者の数倍だが、しかし日本の歴史教科書にはまったくとりあげられず、その記録もほとんど残っていない。そのなかで貴重な史料を提供しているのが慶應大学名誉教授の故・速水融氏による『日本を襲ったスペイン・インフルエンザ』(藤原書店)である。

 

 「スペイン風邪」と呼ばれる新型インフルエンザは、1918年初頭、米国カンザス州ハスケル郡で発生し、陸軍駐屯地で感染を広げた。数千人の新兵が感染し、そのうち数十人が死亡していたが、そのことは覆い隠され、ドイツに宣戦布告した米大統領の命令で、兵士たちは換気の悪い密な輸送船に詰め込まれてフランスに送られた。そこからヨーロッパ全体に感染が拡大し、以後世界中に広がった。交戦各国は士気の低下を怖れて情報統制していたが、スペインは中立国であるがゆえにその流行が世界に知れわたり、そこから「スペイン風邪」という汚名を着せられることになった。

 

 インフルエンザ・ウイルスは世界一周のあと、同年8月に変異し、非常に高い感染力を持つとともに、致死率の高いものへと凶暴化して再度人類に襲いかかった。ここでもウイルスの「運び屋」になったのは米軍で、9月にはボストン近郊の陸軍基地で1日に100人が死ぬほどの爆発的流行となったが、封じ込めはされず、兵士たちの移動にともなって全米に広がり、またイギリスやフランスに広がった。第一次大戦の米軍の戦没者は約10万人だが、その8割が「スペイン風邪」による死者だといわれる。

 

 サハラ以南のアフリカの死者は約238万人と推測されるが、それはアフリカにおける列強の代理戦争にアフリカ人が駆り出され、植民地経営の屋台骨を支えた鉄道がウイルスを運んだからだった。世界大戦によるヒトの移動が、それまでにない速さで感染症を広めた。

 

 日本には1918年秋に変異したウイルスが襲来し(前流行)、1919年末からの後流行とあわせて、約2358万人の感染者と約39万人の死者をもたらした。だが速水氏は、この政府統計には肺炎や気管支炎を併発して死亡した者が含まれていないこと、都道府県の統計自体が不備であることから、実際はそれよりはるかに多いとしている。

 

 当時の医学技術では、病原体を見つけることはできなかった。細菌よりもっと小さいウイルスが原因だったからだ。電子顕微鏡の発明とウイルス学の発展の後、古い人体の組織片からスペイン・インフルエンザ・ウイルスが分離できたのは1990年代のことだという。つまりそれまでの長期間、欧米では病原体の研究が続けられていたわけだ。ところが日本はそこからなにも学ばなかった。だからその反省に立ち、歴史に学ぶことから始めなければならないと速水氏は強調している。

 

 新型コロナに直面する今、この「スペイン風邪」を教訓にすべきだという研究者は少なくない。そこで語られているのは、感染症の流行が一回で終わらず三度の波があり、一回目より二回目の方が致死率が高かったという点だ。もう一つが、当時の米国で、敵国ドイツに対する敵がい心から「ドイツの潜水艦が病原菌を運んできた」「ドイツがアスピリン錠(バイエル社製)のなかに毒を入れた」というデマが広まり、医療現場を混乱させたという点だ。今でも自国ファーストで反中国を煽ることによって、パンデミック沈静化に不可欠な国際協力を妨害していると警鐘を鳴らしている。

 

「疫病根絶宣言」の後 森林伐採から新感染症

 

 ところで、1969年になると「感染症の教科書を閉じ、疫病に対する戦いに勝利したと宣言するときがきた」といった者がいる。当時のアメリカ公衆衛生局長官で、連邦議会公聴会でのことだ。当時、ペニシリンをはじめとした抗生物質が開発され、ポリオに対するワクチンの開発が成功していた。WHOは1980年に天然痘の根絶を宣言した。

 

 しかしここ数十年、エイズ、エボラ出血熱、SARS(重症急性呼吸器症候群)、MERS(中東呼吸器症候群)などウイルスによる新しい感染症が増加している。

 

 アフリカのスーダンで1976年、原因不明の病気で多くの住民が死亡し、調査の結果エボラ出血熱という新しい感染症であることがわかった。発熱をともなう倦怠感や頭痛に続き、嘔吐、下痢、内・外出血が起こり、致死率は50%にものぼる。2000年以降は毎年のようにアフリカで流行し、2014年にはアメリカとヨーロッパでも患者が見つかった。

 

 ゴリラの研究で知られる京都大学長の山極壽一氏によると、自身がゴリラの調査をしているコンゴ共和国やガボンでも、エボラ出血熱がたびたび起こり、ゴリラやチンパンジーが大量に死んだ。だが感染範囲はゴリラの移動できる範囲に限られ、感染個体の死滅で感染はストップしていた。また現地では昔から未知の感染症が知られていたが、感染症が発覚すると村人は村全体を焼き払っていた。

 

 ところが近年、グローバル企業が森林伐採を進め、森の中に縦横無尽に大型トラックが走る道路をつくり、人々が奥地に入り込み、伐採地周辺には市場ができ、野生動物が売りさばかれるようになった。その結果、これまでめったに接触しなかった類人猿とウイルスの宿主であるコウモリが出会う機会が増えた。またウイルスに感染した野生動物が都市に出荷され、感染した村人たちも発症する前に都市との間を行き来し、こうしてアフリカの熱帯雨林に限られていたエボラ出血熱が米国にあらわれた。新しいウイルス感染症誕生の原因の一つは、自然破壊によって野生動物との接触を加速したことだと山極氏はのべている。

 

 また、米国の巨大化した工業式農業は、牛や豚、鶏を過剰な密度で詰め込んで大量生産する家畜革命を進めたが、その家畜工場では成長促進や感染防止のために大量に抗生物質を注射したり、餌や水に混ぜて食べさせている。全米薬剤耐性監視システムが2013年に発表した報告では、牛ひき肉の55%、豚骨付きロース肉の69%、鶏肉の39%から抗生物質に耐性を持つ細菌が検出された。工業式農業が人間のなかに、抗生物質耐性菌による新たな感染症を増やしている。

 

 さらにもう一つの側面として、大企業のもうけと株主利益を第一にする新自由主義が医療体制と公衆衛生インフラを破壊してきたことがあげられる。

 

 新型コロナの感染者数も死亡者数も世界最多の米国では、1981年から1999年までの間に、全米の入院患者用の病床数が39%も減った。病床の稼働率を90%にして利益を上げるためだったが、結果、パンデミックのさいに患者を受け入れることが不可能になっている。また、高齢者の介護は営利目的の老人ホーム産業に丸投げされ、そこでは低賃金と人員不足、施設が感染防止の手順を怠るなどで、これまでも毎年数万人の高齢者が死亡していた。そこが今回、新型コロナの最初の集団感染の震源地になっている。

 

 そのうえ水道民営化によって、米国では水道料金が払えず水道が止められた家庭が1500万世帯にのぼり、感染予防のために手洗いをすることすらままならない。グローバル企業のもうけのために、歴史を100年以上も巻き戻すような愚行がやられている。日本も他人事ではすまない。

 

歴史が示す教訓 共生以外にない感染症

 

 人類と感染症との歴史が教えることは、人類と感染症とは共生する以外にないということだ。病原菌の根絶は根本的な解決策とはなりえないどころか、病原菌がそれに耐えうるよう変異の速度を速めることでより大きな悲劇をもたらす可能性もある。また、もしも潔癖主義にとりつかれるなら、人間にとって有用な細菌やウイルスまで絶滅の危機に瀕するし、それによって体内微生物相が弱体化し、免疫系統への悪影響にさらされてしまう。

 

 一方、グローバル化によるヒトの行き来の飛躍的拡大や、大量生産・大量消費の経済システムによる生態系の破壊が、新たな感染症の流行をもたらしていることも事実である。この経済システムの見直しが待ったなしとなっている。また、感染症に備えて検査、医療、研究へ資金を投入して人的物的体制整備を万全にし、公衆衛生インフラを整備し、治療薬やワクチンの開発を国際協力のもとで進めることが必要だ。それを目先の短期的利益第一の市場原理に委ねるなら、先人たちの長年月にわたる努力を葬り去ってしまい、国民の命と健康を守ることなど決してできないことを教えている。

 

 長崎大学教授の山本太郎氏は、14世紀ヨーロッパのペストの流行は、その後のヨーロッパ社会を根底から変えたとのべている。ペストを防ぐことができなかった教会の権威は失墜し、人材の払底が、これまで登用されえなかった人材の登用をもたらし、それが社会や思想の枠組みを変える原動力となり、封建的身分制度は解体に向かい、新しい価値観の創造につながった、と。それも歴史が示す一つの教訓だとのべている。

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