いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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基地の街から突破した教育運動 岩国の教育巡る歴史的経験

 戦後69年間にわたって米軍による植民地的な支配構造が敷かれてきた岩国において、戦前から戦後にかけて市民は様様な形で斗争を繰り広げてきた。他の都市に類を見ない抑圧、搾取、貧困、そして米軍が持ち込む退廃文化に対して、どのようなたたかいがやられてきたのか、今回は1950年代に教師たちが父母と団結して子どもたちとかかわり、妨害や圧力をはねのけて民族の子としてまっとうに育てていくためにたたかった経験をまとめた。それは1950年の8・6平和斗争が源流となったもので、岸信介、佐藤栄作の地盤だった県東部において、その支配の足下から敢然と立ち上がっていった斗争として広範な市民の支持を得たものだった。
 
 50年代の岩国における経験

 当時、愛宕小学校の校長だった大岡昇氏は手記のなかで「目の前で軍事基地が拡張・増強されるなか、子どもたちはある者は戦争への恐怖感におそわれ、ある者はその反対に戦争を礼賛し、これへの協力を不知不識のうちに身につけていきつつある。植民地化が激しいテンポで進展し、文化様相は異国的になり、裁判権のこと、人種的差別(外人崇拝または蔑視、混血児)、ひき逃げのこと、投げ銭のこと……が次次とおこり、それに対する子どもながらの不満感は批判的態度をとって反抗的となり、また反対に劣等感をともなって拝金主義・物質至上・事大思想も強く根をはっていきつつある」「暴行や傷害は数を増し、ヒロポン禍は蔓延し、売春とそれによる性病が市民の神経を痛めている。これらから子どもを守るためにはどうしたらよいのか」と胸の内を記している。


 当時の調査結果によると、岩国に住む子どもの一般的傾向として、すべてのことに意欲的でなく、退廃的で、真面目に働くことをきらい、怠け者が多く、6年生の子どもですらパンパンの生活を見ていると真剣に勉強しようとする心が麻痺し、いちじるしい学力低下が進行している、とある。


 大岡氏はさらに、知り合いの主婦が、「ある日、中学校3年の女の子が便所に行ったのですが、なかなか便所から出てこないのでおかしく思って行ってみたら、便所の中の小窓から娘が外を食い入るように見つめているではありませんか。私は娘を叱り何かと思ってふと小窓から見ると、裏の家の一室の中が丸見えで丁度米兵と女がしている最中ではありませんか……それから後、娘の様子をじっと気を付けて見ますと勉強していてもぼんやりして何か思いふけっているようで、成績も下がってしまいました」と話していたこと、またある農家の主婦が、「うちの中学1年の子がこんなことをいうのです。『お母さん、百姓はつまらんのう。大根をこれだけ大きくしてこんなにたくさん市場に持って行ってもあれだけしかもうからんのか。○○の家のは2時間ほどパンパンに貸して5000円もうかるんといね。パンパンに貸すのは遊んでおってもそれだけでもうかるんじゃけえのう』というのです。本当に恐ろしくなります」と語っていたことも手記のなかで記している。


 こうした植民地的な退廃と屈辱が子どもたちの成長を蝕んでいる状況に対して、教師たちの胸中にはやむにやまれぬ民族的な怒りがたぎっていた。そして子どもたちに対する愛情を持って立ち上がっていった。


 敗戦の混沌とした状況のなかで、教師たちは戦争に協力させられ、軍国主義教育で子どもたちを戦争にかりだし、みずからも戦争におもむいた痛苦の体験から、「どう生きてどのような教育をすすめるか」を誰もが模索していた。子どもたちの生活は親兄弟を戦争で失った子どもが多数おり、食料事情はひっ迫。朝も昼も雑炊、代用食が続き、欠食児童が続出する状況にあった。教師といえば当時はみな戦争体験者だった。戦地から戻ってきた者、夫や恋人を戦争で失い空襲で焼け出された者、都会から親せきを頼って岩国に来た者、広島で被爆した者など様様だった。
 当時の岩国市内では、岩国小の森脇先生をはじめとした青年教師、婦人教師たちの集団、麻里布小には宇野順二先生を中心とした教師集団があり、川下中には恩田操先生らの生活綴り方運動、愛宕小には大岡昇校長をはじめとする強固な青年教師の集団があるという状況で、それらが支えあい基地の街の教育運動を形成していた。

 街娼との座談会 婦人教師ら解決の為に

 1952年には3つの斗争がたたかわれた。第1に青年教師が中心になり、川下の農民や労働者とともに、土地取り上げ反対、基地撤去のたたかいを進めたこと、第2に婦人教師が中心になって基地反対、子どもを守る運動を地域でくり広げたこと、第3には愛宕小学校を中心とした全校あげての反戦教育実践だった。全国でレッドパージが強行され、朝鮮戦争に岩国基地から爆撃機が飛び立っていた当時、基地反対を叫ぶのは「アカか朝鮮人」といわれ、その活動はなかば非合法下におかれていた。しかし青年教師たちはそれに屈することなく、基地反対の方針を実践。川下の農家をたずね、農民の血と汗で築きあげてきた干拓の歴史や基地反対の斗争を学び、農家で開かれる農民の会合に参加した。1952年2月21日には、川下で官憲の弾圧をはねのけ、戦後初の米軍基地反対集会(祖国をわれらの手に)を開催。これには青年教師を先頭に岩国の教師たちが参加してともにたたかった。


 たたかいのなかで教師たちは体をはった労働者や農民のたたかいに学び、また教師の参加が労働者、農民たちを激励するものとなった。


 そして婦人教師たちは、退廃的、植民地的教育環境から子どもを守る運動を展開した。基地周辺の子どもや父母の中に入り、また街娼との座談会を開いて、基地が子どもと教育にどのような影響を与えるかを調査し、全県、全国へ訴えていった。52年の第1回全国婦人教師の教育研究集会にその結果を報告。売春婦との5回にわたる座談会報告もおこなわれ、パンパンと呼ばれた女性たちも、戦争や貧困を原因として身を持ち崩していたことが実例を通してのべられた。


 そのなかで座談会をおこなった十数名のほとんどが、戦後の経済的困難の犠牲になり、子どもに送金している者も多いことが明らかにされた。広島で被爆し全身に傷痕があり結婚に失敗していたり、実家の借金返済のためであったり、自分を犠牲にして家をおこそうと街娼に転落したこと、横須賀、呉、岩国と移動してきた婦人がいること、アメリカ兵と知りあい同棲するが、結婚に親が反対、米兵は朝鮮戦争で戦死して1人になり、2度目の自殺(未遂)をはかった婦人、引揚者で5歳の子と母親を神戸に残し、母親にバー勤めと偽って子どもの養育費を送金している婦人など、その境遇や状況について婦人教師みずからが分け入ってつかみ、敵対するのではなくその解決のために何を為すべきか行動していった。


 当時の子どもたちの状況について調査をおこなった婦人教師は、「占領軍の駐留という独立なき日本の悲劇が子どもの上に集約された現象とみるべきだ」とし、その後の運動として地区労協、農民とともに基地拡張反対署名を市民に訴えたこと、街娼の自覚を促し、実態調査をおこなったこと、平和と独立の運動として、婦人、労働者を立ち上がらせ、基地撤去の世論をまき起こしつつあることをレポートに記している。

 父母と団結し斗う 投げ銭事件と不当人事

 「平和教育カリキュラム」の実験校に指定された愛宕小学校は、米軍基地からわずか600㍍の位置にある。植民地的退廃、まきちらされる拝金思想にそまっていく子どもたちの教育をどのように進めればよいのか、教職員は葛藤していた。授業で時間を割いて、例えば1年「ひろいもの」、2年「となりのひと」、3年「遺家族」、4年「戦争のいたましさ」、5年「憲法のねらい」、6年「平和よ戦争に負けるな」という単元に具体化して、子どもたちの実態を調査研究し、平和教育のとりくみを進めたりしていた。


 さらに退廃的、植民地的環境から子どもたちを守るために校外活動を重視し、校区地域で子ども会活動を進めた。子ども会は「子どもの自主性を育て、基地の中にいて、これを乗り越えていくたくましい生活力を身につけさせる」ことを目的とし、「学習面」では夏休みなどでの林間学校の実施、写生会、仲良し文庫の利用などを重視。「訓育面」では交通道徳、集団による清掃活動、言葉づかいの問題がとりあげられ、「体育面」ではラジオ体操や寒中マラソン、水泳会などを実施し、「厚生面」では幻燈会、映画鑑賞、童話会、歌ごえ運動などを計画し、教師、父母、子どもが一体となってとりくんだ。


 これらを実現するには、PTA、保護者、一般市民を巻き込んでの理解を深めていくことが不可欠で、環境の浄化や解決すべき問題をあらゆる角度から考えていく大衆討議、子どもを社会の子として育成し、日常生活を補導するという生活補導など親自身の課題も掲げてとりくまれた。


 毎日、夕食の後片付けもそこそこに、教師たちは古い自転車に幻燈機を積み、手づくりの紙芝居や幻燈を基地の街のあちこちの広場で上映。終わった後は父母と一杯やりながら、子どもの教育のこと、戦争や平和の問題、人生のことなどをともに語りあった。


 また平和教育実践を進めた教師たちは、当時新たに勃興してきた生活綴り方運動に力を入れ、生活作文・生活詩をとりあげて実践。子どもたちの身近な生活を表現する作文や詩は、みずからの生活への関心を高め、人民的な感性を養ううえで大きな役割を果たし、また教師が子どもたちを理解し適切な指導をするうえで有効であり、子どもたちが目に見えて落ち着き、活発になっていったとされている。


 こうした実践を進めながら1952年末には、校区の父母や市内の教職員に呼びかけ、1年間の実践の成果と今後の課題を明らかにするために研究発表会を開くなど活動を広げていった。


 1955年3月15日、愛宕小の5年生100人が、社会見学のため担任教師に引率され歩いて川下の車町にさしかかったとき、トラックに乗った米兵が子どもたちの列に向かって10円硬貨一握りを投げつけ、12~3人の子どもが列を乱してそのカネを拾うという事件が起こった。これを見た米兵はなにか叫びながら手をあげて笑って通り過ぎた。後ろを歩いていた教師は瞬間的に「拾うな」「拾った者は捨てろ」と指示をしたが、その後見学を終えた帰途でも、米兵4~5人が100円札を子どもたちの列にばらまいた。


 この事件は全国に衝撃と憤激を起こし、愛宕小には各地から投書が毎日のように寄せられる事態となった。愛宕小の教師集団は、この問題を基地岩国さらには米軍基地の存在を許している日本社会全体の問題としてとらえ立ち上がった。


 愛宕小学校では父母とともにたたかうことを決め、ただちに子どもの作文をのせた父母あての手紙を出し、緊急保護者会を開催。3月22日の保護者会には講堂をうめる父母が参加し、「投げ銭事件」の本質、子どもへの対処、こうした事件を再びくり返さないためにどうするかなど白熱した討議をくり広げた。


 だがその5日後の27日、岩国市教委は当時教組岩国支部長でもあった、愛宕小校長の大岡昇氏に対し、突如配転の内示をうち出した。平和教育の指定校として平和教育を進めてきたことと同時に、「投げ銭事件」にからんだ不当人事であることは明白だった。


 愛宕小の教師たちは反撃に立ち上がり、翌28日から十数度にわたる交渉、署名、父母とともに座り込みを続けた。赤子を抱いたお母さん、お父さん、おばあさん、そして卒業生の約100人が連日たたかいを展開。根底には「投げ銭事件」に対する市教委の屈辱的な態度への民族的な怒りがあった。


 4月2日夜、ついに教育長は大岡校長の留任を発表。父母、教師の万歳の声が市教委を揺るがした。

 「赤い日記帳」事件 中央権力と敢然と対決

 しかし当局からの弾圧はその後も続いた。1953年に発行された県教組編集・発行の日記帳は反戦平和教育のなかでつくられ、各学校で子どもの生活指導のために活用されていた。そのなかの「欄外記事」では、「平和教育カリキュラム」の方向に沿い、社会と歴史の真実を子どもたちが学んでいくよう工夫され、時事、行事、歴史的事件などを解説。執筆は現場教師による編集委員会が担当した。


 問題となった箇所は、再軍備反対(再軍備反対の声が強いのはなぜか)、講和条約の批判(日印平和条約)、軍事基地反対(死んだ海、再軍備と戸じまり)、朝鮮動乱(気の毒な朝鮮)、対中国貿易再開(ポツダム宣言、日本の貿易)、資本主義の矛盾(ソ連とはどんな国か)などだった。そのうちの一項目「再軍備と戸じまり」は次のようなものだった。


 日本人のなかには「泥棒が家に入るのをふせぐためには、戸じまりをよくして錠前をかけねばならない」といって、ソ連を泥棒にたとえ、戸じまりは再軍備と同じだという人がいます。これは正しい話でしょうか。再軍備という錠前は、毎年高いお金を出して、ますます大きくしますが、どうも泥棒はまだ来ないのです。……ところがどうでしょう。表の錠前を大きくしてばかりいて、裏の戸をあけっぱなしにしているので、立派な紳士がどろ靴で上がって、家の中の大事な品物を806個もとってしまいました。それでも日本人は気がつきません。とられた品物をよく見ると、それが軍事基地だったのです。いったい、どちらが本当の泥棒かわからなくなってしまいますね。


 1953年6月4日、岩国市教委は突如「日記帳に不穏当な内容がある」と一父兄から指摘を受けたとして、緊急校長会、PTA会長を招集。日記帳の内容は「反米親ソ的で、妥当をいちじるしく欠く」とし、使用中の日記帳の回収を決定した。全国で米軍の日本からの撤退を要求する斗争が起こっていたさなかであり、アメリカの要求通りに再軍備の道をたどろうとしていた支配階級にとって許しがたい教材だったことから、市教委レベルを飛び越えて文部省中枢の指示によって袋叩きにする動きとなった。


 岩国市教委に続き、全県市町村教委協議会が県教委に厳重指導を要望。県教委は日記帳の回収を通達した。中央権力の発動で山口県内の大小のボス連中を焚きつけ、教育委員会、校長会、PTAを動員。さらにマスコミは物量宣伝を日記帳に集中させ、「アカ」の日記帳と連日のように書き立てた。


 その先頭に当時政界復帰をたくらんでいたA級戦犯の岸信介がたち、陣頭指揮をとった。また岸みずから「憂うべき偏向教育」という冊子を著し大量に配布。当時の文相は、第二次世界大戦中にシンガポールの特別市長をつとめた内務官僚・大達茂雄、文部次官には「満州文教部次長」の前歴がある田中義男、日教組対策を専門に扱う初中局長には、警視庁の特高あがりの緒方信一が任命され、岸信介の指揮のもとに大がかりな弾圧をおこなった。


 こうした攻撃に、校長の多くは屈服し、組合員に脱退届を配り、また一人一人を呼び出して氏名の記入と捺印を迫った。抵抗する教師には“年度末の人事で不利な目にあっても知らぬ”と脅して脱退を強要。徳山市では教育委員会、校長たちが正面に立ち並び、一堂に集めた全教師に「教組から脱退を挙手によって示せ」と強制し脅迫するなど、横暴きわまる手段をとった。こうした攻撃に呼応して組合内部からも支部幹部など反動派に屈服し、県教委と手を握って裏切りに出る者も出た。元県教組副委員長で、当時熊毛支部の支部長だった男は、組合脱退と第二組合づくりに功績をあげ、後に政界復帰した岸信介の秘書に登用されるというものだった。


 この激烈なたたかいの過程は、多くの教師の生き方を鋭く問うた。日本の教育、日本の未来と子ども、父母大衆に責任を持つ教師は強く結束を固め、市教委の子どもからの日記帳強制とりあげを許さず、これをうち破ってたたかった。欄外記事に目を通した父母は“これは本当のことが書いてある”といって教師たちの運動を支持した。この斗争のなかから民族民主教育が生み出された。


 山口日記帳事件にいたる50年代初頭の岩国における教育運動はアメリカとそれに従属して復活をとげていく日本の支配階級の戦争策動と教育支配に真っ向から反対し、教師が子ども、父母と固く団結して推し進めた戦後の最初の大衆的な教育運動として刻まれている。

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