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朝鮮人虐殺にどう向き合うか――関東大震災から来年で100年 東京都人権部が映像作品を上映禁止に

神戸市の民家から発見された「東都大震災過眼録」(1924年、萱原白洞作)の一部。後ろ手に縛られて連行される白衣のチョゴリを着た人々が描かれている。

 東京都の人権啓発活動の拠点「都人権プラザ」(港区)で開催中の企画展で、関東大震災での朝鮮人虐殺を扱った美術作家・飯山由貴氏の映像作品が上映中止となった。飯山氏によると、都人権部は「関東大震災での朝鮮人大虐殺について、映像作品内で“日本人が朝鮮人を殺したのは事実”といっている。都ではこの歴史認識について言及をしていない」「(小池百合子知事は朝鮮人追悼式典に追悼文を送っておらず)都知事がこうした立場をとっているにもかかわらず、朝鮮人虐殺を“事実”と発言する動画を使用することに懸念がある」などの意見を示したという。

 

 1923年9月1日、相模湾北西80㌔の地点を震源地とするマグニチュード7・9の地震が起こり、揺れと火災などによって死者・行方不明者10万5000人余、焼失家屋21万2000余戸を出す甚大な被害をもたらした。

 

 この混乱のなかで在日朝鮮人が6000人以上(いまだに正確な数はわからず)、在日中国人は667人(詳細な記録が残っている)が殺された。来年はその100周年に当たる。

 

 この在日朝鮮人の虐殺事件については、研究者や住民たちの長年の掘り起こし運動や、追悼碑の建立と毎年の追悼行事などによって、後世にその事実を伝える努力がされてきた。この事件は、戦前の天皇制軍国主義による戦争と植民地支配が生み出した悲劇だが、事件の真相を明らかにし、犠牲者は人道にかなったやり方で弔い、二度とこうした悲劇をくり返さないようにしたいとの願いから、それはおこなわれてきた。

 

 荒川河川敷での遺骨発掘は、1980年代はじめ、小学校の女性教師が地元のお年寄りたちから「関東大震災のとき、ここで軍隊の機関銃が火を噴き、殺された朝鮮人が河川敷に埋められた。今も遺骨が埋まったままではないか」との話を聞いたことをきっかけにして始まった。結局遺骨は出てこなかったが、10年にわたりのべ150人から当時の貴重な体験談を聞き出すことができ、書籍にまとめられた。荒川河川敷では、今も毎年追悼式がおこなわれている。

 

 また、90年代からの国立歴史民俗博物館の常設展示のとりくみのなかで、関東大震災に直面した当時の画家や画学生たちが、その場にいたものの責任として、軍隊や警察が朝鮮人に銃剣を突きつけ、殺し、あるいは連行している場面を、多くのスケッチや絵巻物として残していたことがわかってきた。

 

 画家・柳瀬正夢は焼け跡を訪ねてスケッチブック3冊にスケッチを残しており、「(彼の目は)おびただしい骸のなかに、行方知れずになっている平沢計七や川合義虎ら南葛の若い働き手たちの足跡とともに、おびただしい数の朝鮮人労働者や中国人留学生たちの屍の行方に注がれている」(井出孫六)と記されている。

 

 さらに研究者たちの努力で、震災直後から「朝鮮人が殺人や放火をしている」という流言飛語を意図的に流したのは警察だったこと、政府はそれを口実に戒厳令を敷き(2日)、軍隊を出動させて朝鮮人を虐殺したこと、5日になると山本権兵衛内閣は一転して「朝鮮人が暴動を起こすというのは虚言」だと否定して事件もみ消しに動いたこと(海外からの批判を恐れて)、その後の裁判では軍隊や警察の行為は不問に付され、朝鮮人を殺害した罪で被告になったのは自警団などの民間人だけだったこと、などの事実が明らかにされた。それによって「民衆が加害者」とする左翼の贖罪論がいかに的外れで、権力を利するものであるかも暴露されている。

 

 都立横網町公園には、震災50年の1973年に「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼碑」が建てられ、翌年からはその前で「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典」が開催されるようになり、歴代の都知事も追悼文を寄せてきた。それを2017年以降、一転して拒否し続けているのが小池知事だが、あったことをなかったことにして近隣諸国からの信頼を失うのは日本の側である。むしろ事件から1世紀がたとうというのに、誰も責任をとらないばかりか、犠牲者の名前も埋葬地もわからないまま放置していることの方が異常だ。真実を明らかにし教訓にして、二度と悲劇をくり返さぬよう近隣諸国との平和と友好に尽くすことが、日本を愛するまともな政治家としてのあり方ではないか。

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