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礒永秀雄の顕彰運動を 没35周年にあたって

 戦後、日本人民の魂をうたった詩人・礒永秀雄が逝去して35周年を迎える。礒永秀雄は学徒出陣で南方に送られ九死に一生を得た戦争体験から1950年、山口県光市で駱駝詩社を創設し、55歳の生涯を閉じるまで詩、童話、エッセイなど多くのすぐれた作品を発表した。それらは彼の死後も、世代を超えて多くの人人に深い感動を与えて普及され、平和運動に大きく貢献してきた。東日本大震災と復興の過程で、戦後日本社会のありようが根本から問われ、支配的権威は崩壊し、あらゆる化けの皮がはげ落ちている。礒永秀雄の作品と詩精神はいちだんと輝きを増して、日本の独立と平和、繁栄を求める世論を励まし、新しい芸術運動の展望を示すものとなっている。この秋に向けて、礒永秀雄の顕彰運動を、各界各層のなかで旺盛に発展させることが期待される。
 礒永秀雄の詩、童話は、一部の詩人や文学愛好者にとどまらず、普段は詩や文学とは無縁な一般の労働者や商店主、企業家など、また婦人、青年から子どもたちまで広く愛唱、愛読されてきた。礒永没後五年ごとに開催される詩祭は年年、参加者を拡大し、情勢の進展とかかわってつねに新鮮な感動を組織し、大衆的な文化運動の発展を促してきた。
 こうした礒永作品の持つ生命力は、戦後の詩壇が低迷してきたことと比べて、きわだった特質となっている。それは礒永秀雄の戦後出発に根ざした芸術観、社会観、時代観と深くかかわっている。
 礒永秀雄は太平洋戦争の末期、学徒臨時徴集でニューギニアの手前・ハルマヘラ島に追いやられた。彼はエッセイ「八月の審判」、詩「修羅街挽歌」などで、みずから斬り込み部隊要員として生死の境をくぐり、飢えや病気で無残に死んでいく戦友をまのあたりにし、生き残って日本の土を踏んだとき、残された命を詩人にかける決意をしたことを、くり返し語っている。
 礒永秀雄のこうした戦後出発は、同じ境遇のもとで肉親や知人を殺され、家財を焼かれた多くの日本人民の心情を代表するものであった。彼は支配階級の犯罪的な戦争を身をもって体験した誠実な人民の一人として、多くの大衆の側に立っていかなる権威やまやかしをも拒絶し「永遠に青春を生きる」ことを理想とした。
 それは当然ながら、社会の片隅にうずくまり一部のインテリのなぐさみものとなった「現代詩」、商業主義に毒され真実を失った東京中心の詩壇と決別し、山口県に腰を据えて地方現実へ迫る創作姿勢と一体のものであった。
 1950年朝鮮戦争の年、中原中也や立原道造の叙情と決別し『駱駝』を創刊した礒永秀雄は1955年、創刊まもない長周新聞に詩論「現代詩の根本問題について」を発表した。そこで彼は、戦後アメリカの支配のもとで表面的な華やかさとは裏腹に暗い根をはりはじめている日本の現実を直視し、「こうした歴史的な社会のなかで、少なくとも現代詩を口にする場合、この社会情勢と無縁な詩を書く事は、どの良心もが許さない」と書き、「わたしはやはりなんらかの意味で役に立つ詩を、と願う。そしてそれは少数よりも多数の人人に役立つ詩をと願う」と宣言している。
 礒永秀雄は古今東西の詩人・芸術家から学び、人類の文化的遺産を継承することを重視し、日本の民族的な人民生活、感情、美しい日本語をおろそかにする者をべっ視し、「正統詩」を標榜した。それは常にみずからの戦争体験と戦後出発に立ち返ることで、また50年代後半に長周新聞紙上で展開された文芸座談会、文芸論争を通してとぎすまされていった。
 このことは60年「安保」斗争の真っただなかに飛び込み、「輪姦」などの作品を通して民族の魂を売り渡した為政者と正面から立ち向かう作品を生み出し、「極限の場において観賞に耐えうる芸術」を追究する地盤を築いたことに示された。「ゲンシュク」などの詩や、「四角い窓とまるい窓」などの童話は、「高度成長期」にふりまかれた繁栄ムードのまやかしを生産人民の感情を代表して風刺している。
 それらはさらに、「安保」以後の挫折ムードに警鐘を鳴らす「虎」、「共産党」の看板を掲げて革命をエサに酒を飲む「自称革命の戦士たち」をあばく「こがらしの中で」「ただいま臨終!」などの反修詩の相次ぐ発表につなげられていく。そうした蓄積のうえに、72年の「一かつぎの水」など『訪中詩集』をへて、腐敗しきった支配階級のイデオロギーの崩壊を見てとり、抑圧から立ち上がっていく人民の新しい生命力に未来を見出し、それに惜しみない称賛を捧げる数多くの作品が生み出されていった。
 礒永秀雄の作品と詩精神は、戦後66年をへて、とくに「金権第一」「営利優先」の新自由主義のもとで日本社会の植民地的な荒廃がむき出しとなった現在、戦後の文芸界にまんえんした思想の退廃を一掃し、新しい芸術運動を創造するうえで貴重な教訓を与えるものである。
 礒永秀雄は、詩人が自己の「うらぶれた告白」や、芸術を形式主義の世界にとじこめ、詩人仲間でなれあうことを厳しく批判している。そして、詩人は詩人である前に、なによりも社会人であり、国籍を持ち、風土を持ち、生活を持つ人間であることを自覚することを求めている。また、そうでなければ詩は「傍観者の独白の域を出ないであろうし、一部知識人を慰めて終わるだけの運命しか持ちえない」こと、「詩と生活の統一」なしには生産と無関係な遊びの芸術しか生まれないことを強調している。
 東日本大震災と福島原発事故は、芸術を遊びとみなし商業マスコミに媚びを売る潮流に手痛いしっぺ返しとなり、一方で観念的な自己主張の政治主義の潮流を青ざめさせている。小市民の嘆きや充足ではなく、地方の共同体の結束を強めて新しい時代を開くたくましい生産人民の生活、気分感情をその葛藤において、いきいきと発展的に描き、彫り深い感動と未来への確信を共有できる文学・芸術、「極限の場において観賞に耐えうる芸術」の登場が切実に求められている。
 礒永秀雄の詩、芸術が圧倒的多数の人人から歓迎され、安心して普及され、愛唱愛読されてきた理由の一つに、礒永秀雄の芸術世界の幅広さ、柔軟さがあげられる。彼は生きた現実の動きをありのままにとらえること、そのために芸術家がみずからの狭い主観世界に固執することを極度に戒めている。
 「私たちは失っている。あるがままのものをあるがままに眺める謙虚さ、……私たちはエゴの牙を磨きながら、いったいどこへ行こうとしているのであろう」(『燃える海』あとがき)。「いやらしい詩はいつもすまして坐っている。……動きのままに捉えるむずかしさは、観念の操作でどうこうできるものではあるまい。動きの中心へのひたぶるな斬り込みには、自我が顔を出す余地はないのである」(『駱駝』147号あとがき)
 礒永秀雄自身は「私は自分自身のなかのすべてを改革した。わたしの感受性までも」というルイ・アラゴンの言葉を指針にしていた。礒永秀雄が残した作品群は、彼が厳しい自己変革をへて古い世界と決別し、新しい時代意識をもった芸術の道筋を実作品で体現していったことを示すものである。
 礒永秀雄没35周年を記念して、礒永作品をさらに広範な人人に届け、観賞しあい、その業績を顕彰する運動を発展させることは、今日歴史的な意義を持っている。

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