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全国、世界の大交流の場に  広島市民原爆展主催者会議

 「原爆と峠三吉の詩」広島市民原爆展(主催、原爆展を成功させる広島の会、下関原爆被害者の会)まであと2週間と迫った17日、2回目の主催者会議が開かれた。会合では、60年の沈黙を破って語りはじめた長崎原爆展の大成功が深い共感を呼び、世界で唯一原爆を投げつけられた広島と長崎がほんとうの思いを語り、若い世代、全国、世界にアピールしていくことが二度と原爆使用を許さない力になっていくとの認識で一致、原爆展成功にむけ高揚した雰囲気のなかで活発に論議がくり広げられた。

  戦後60年 新たな核戦争阻止へ
 冒頭成功させる会の重力敬三代表世話人が、「下関の方、長崎に行った人人の話も聞いて、昨年を上回る原爆展として盛大におこなえるよう活発に論議してほしい」と訴えた。
 ともに主催団体である下関原爆被害者の会の杉山真一事務局長は、「長崎原爆展は3100人が参観し、200人を超える被爆者がはじめて体験を話し大成功だった。“祈りの長崎”といわれてきたが、原爆にたいする怒りにあふれ、三度原爆を使わせてはいけないという思いは、広島、長崎共通のものだと実感した」とあいさつした。
 
 市民の賛同・協力174人
 つづいて広島の会事務局からこの間の運動の経過と、原爆展の展示内容、運営などについて報告された。
 報告では、市民の賛同・協力は174人となり、被爆者や遺族、町内会、老人会、商店街等、各界各層の市民の協力が広がり、今年五月に発行した『60年目に語る被爆市民の心――広島被爆体験集』の内容に共感が広がり普及もすすんでいるとのべた。
 そして「60年まえの原爆投下をふり返り、イラク戦争やアメリカの核兵器独占、新型核兵器開発、厚木基地機能の岩国への移転増強や日本をめぐる核戦争の危機と重ね、あらためて新鮮な怒りを呼び起こしている」と指摘。そのようななかで「広島と長崎の絆を強めて、原子雲の下から被爆市民のほんとうの声を伝え、若い世代や現役世代と被爆者の交流をはじめ、市民原爆展が広島での全国的な交流の場になるように力を入れてとりくみたい」と報告した。そして昨年よりもう一部屋ふやし交流の場をふやすことも明らかにした。
 展示内容では、今年は新たに「沖縄戦の真実」「東京大空襲」のパネル8枚をはじめ、「沈黙を破る長崎の怒り――“祈りの長崎”は虚構であった」パネル2枚、「“原爆使用は正しい”といわせぬ力をつくった―朝鮮戦争、ベトナム戦争で使用を阻止」パネル一枚、「原爆展を成功させる広島の会の活動経過」パネル2枚を追加し、全国から参観に来る人人の問題意識にこたえられる充実した内容になると報告した。同時に今年1年の会の活動として広島の学校で子どもたちに体験を語り、その後届いた子どもたちの感想文も多く展示するとのべた。

 長崎原爆展の大成功を共有
 その後の交流では、長崎原爆展に参加した被爆男性から、「長崎の原爆展では参加者が熱心で一字一句逃さないような感じで見ておられるのが印象的だった。長崎での原爆展ははじめてと聞いて不思議に思うくらいだった。“怒りの広島”にたいして長崎は“祈り”といわれて、原爆が神の思し召しのようにいって抑えられてきたことをはじめて知った。しかし被爆にあった方方の思いはひじょうに悲惨でその状況が載せられていて、広島、長崎も同じだと痛感した。二度と起こさせないという思いでいけば強力な力になるのではないかと思う」と感動をこめて話した。別の男性被爆者は、「長崎の方の体験はすごく悲惨だなと思った。広島の原爆展でも長崎のように聞いた体験をぜひ載せてはどうか」と提案した。
 下関の杉山氏は、長崎で昨日賛同者会議がおこなわれ、長崎から13人が参加し、「下関や広島に学んでやっていこう」と話されたこと、一番印象に残ったこととして、長崎の被爆者が「長崎の原爆資料館は駄菓子屋の陳列棚以下だ。原爆のほんとうのことが展示されていない。長崎の資料館も“あまりやりすぎたらいろいろ問題があるんだ”とほんとうのことが出せないようになっている。アメリカにあれだけひどいことをされているのに、いまからそれをいわないといけない」と語っていたとのべ、「長崎からも広島に参加して、長崎の息吹を伝えてほしい」と期待をのべた。

 老人施設から団体で参観も
 その後参加者からそれぞれのとりくみ状況がいきいきと報告された。
 いとこが被爆死しその思いを背負い積極的に行動してきた70代婦人は、老人福祉施設等にチラシやポスターを宣伝し、一つの施設では30人ほどの団体で原爆展を参観することが決まったと報告した。別の60代婦人は、地元井口台小学校で被爆者の方に語ってもらい学ばされることが多かったとのべ、地元のショッピングセンター前でチラシをまき宣伝していること、「もっとつぎの世代ががんばらなければ」「またつぎの学校にもアタックしようかと思っている」と意欲もみせた。
 はじめて参加した可部在住の被爆男性は、「動員学徒として直接被爆をしているが、息子にも家族にも話したことがない。少しでも語り、役にたてれば」と気持ちをあらわした。
 「今年は体験談を話すコーナーをふやして要望していたら、会場も広くなりそれが実現してうれしい。最近でも可部原爆展や井口台、藤の木、江波などの学校で会員ではない被爆者の方も協力してくれた。そういう人たちにも声をかけて輪を広げたい」(被爆男性)、「修学旅行で体験を話した子どもたちから個人的に手紙が届いた。“聞いた話をもとにそれを歌や劇にする”と書いてあった」(被爆婦人)とつぎつぎに思いが語られた。
 八六歳の被爆男性は、「アメリカは毒ガスが国際法違反というが、原爆は何十倍の国際法違反か」と憤りをぶつけた。
 下関の事務局からは、「長崎でも60年間抑えられてきた怒りが発揚されていった。広島での峠三吉の詩を長崎の人にはじめて持ちこんでいくなかで真実が語られはじめた。怒りを原点に広島、長崎の強い絆が生まれてくると思う」と話した。
 また「なぜあんなひどい目にあわなければならなかったか」「戦後なぜこんなひどい社会になったのか」という問題意識を持って全国から広島に来ていることにふれ、「“いま企業でも銀行でもアメリカの資本にやられている。これも原爆投下からはじまったんですね”というように、それぞれの経験から戦後60年をふり返って論議になっている。また広島湾一帯が米軍再編の中心になり、上関一帯が核攻撃の対象となり、ひじょうに緊迫化するなかで、語らねばと思いはじめ、敏感になっていると思う」と語った。
 86歳の被爆男性は、「長崎も同じような目にあっている。みなどのように難儀な思いをしているか。それを長周新聞さんたちの努力によって、おおっていた皮を切ってみな話をはじめたことはほんとうにありがたいことだと思う。長崎も語りはじめほんとうによかった。いま日本人が全部悪いようにかぶされているが、アメリカの原爆は毒ガスどころではない。みなさんが手を握りあって語っていきましょう」と訴えると参加者からも拍手が起こり、会場全体が高揚した雰囲気につつまれ、原爆展成功にむけ全員で奮斗を誓いあった。

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