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長崎市民の意欲的取組広がる 長崎「原爆と戦争展」

 長崎市内では、29日から長崎西洋館ではじまる第4回長崎「原爆と戦争展」へ向けて、市民のなかでとりくみが進んでいる。ポスターやチラシを預かった市民が居住地域や学校などへ宣伝に出向いたり、そのなかで、「アメリカ政府に原爆投下の謝罪を求める」アピール署名も回され、論議が広がっている。長年沈黙を強いられてきた長崎の被爆市民が1つとなって積年の思いを誰はばかることなく語っていくこと、とくに若い人たちに体験を語り継いでいくことへの意欲が強まっている。
 70代の被爆婦人は、町内の医者や自治会などで原爆と戦争展の賛同を訴え、地域住民が喜んで協力してくれていることをうれしそうに語った。
 「町内にポスターを配って回ると、“毎年、下関や広島の方が一生懸命やってくれることに頭が下がる。長崎のものがやらんば”と20枚のポスターがたちまちなくなった。少ない年金からカンパも出してくれ、“祈りの長崎”どころか原爆の怒りを長崎市民が伝えないといけないと口口にいわれた。私たち市民は、原爆で苦しんでもこれまでどこにもいっていくところがなくて黙ってきたが、原爆展で火がつきましたよ」と話した。今後もひきつづき地域で宣伝を続けていく意欲を燃やしている。
 昨年の「原爆と戦争展」を参観した市民からも、今年の開催が心から喜ばれている。とくに、親兄弟を殺されながらも、「祈り」ムードの中で「原爆は終戦を早めた」「しかたがなかった」というあきらめを強いられ、これまで語ることのなかった痛切な思いが堰を切ったように語られ、「ぜひ長崎の子どもたちに伝えたい」「全国に伝えたい」という意欲が高まっている。
 爆心地付近に住む80代の婦人は、「あんな展示会は初めてだったが、私も遺族なので昨日のことのように思い出した。今年も誘い合って見に行きますよ」とにこやかに話した。
 当時、海軍下士官だった夫とともに天草に転勤していたため直接被爆はまぬがれたが、実家は爆心直下の上野町(現・橋口町)にあった。急いで旅費を工面して、天草から小さな漁船で長崎に渡り、幼い2人の子どもをつれて家の焼け跡を捜し歩いた。両親は戦時中に病死し残った7人兄弟はそれぞれ独立した家庭をもっていたが夫婦も幼い子どもたちも一瞬のうちに灰となり、骨も見つからなかったという。浜口町(現・原爆資料館付近)にあった夫の実家も焦土と化し、両親の遺骨さえなかった。
 「長兄は現役で陸軍に入隊して無事復員してきたが、結婚8カ月しかならないうちに再召集されて南方に送られた。昭和19年1月に所属していた連隊が“南方で玉砕した”というニュースが新聞に載っていたが、とても奥さんにはいえなかった。その奥さんも原爆で爆死して跡形もなく、終戦後に役所から兄の死亡通知がきて、私が骨箱を受けとりにいった。中身は空っぽですよ」と思いを語った。
 「夫も“沖縄に米軍が上陸したら戦争は終わる”と話していたが、原爆など落とす必要は全くなかった。戦死者は“線香代”程度の慰労金で片づけられ、最近では生きているものさえ“後期高齢者”と呼ばれるようになった。なんのために戦争の中を苦労して生きてきたのか。原爆で一家全員を殺されたものは伝えるすべがない。私が残されたものとして語り残していきたい」と語り、賛同者となった。

 アピール署名も手から手へ
 滑石に住む被爆婦人は、サークル仲間に回して集めた「アメリカに謝罪を求める」アピール署名30人分を出して、「みんな“長崎のものなら当たり前の主張”“これを語り継がないといけない”といって1日でいっぱいになった。韓国や中国からは慰安婦問題などが持ち出されるが、日本はいまだにアメリカの植民地じゃないですか。いいなりどころか米軍基地まで提供しているが、アメリカには真先に戦争の賠償をさせるべき」と語気を強めた。
 「原爆から7年たっても浦上川では雨の晩には遺体から出る青いリンがポッポッと上がっていたのが忘れられない。長崎では如己堂や永井記念館ばかりが派手になっているが、平和祈念像を下ったところにひっそりと無縁仏を納めた納骨堂が建っている。これはほとんど知られていない。“祈り”といいながら、死んだ人間がバカにされてきたと思う。長崎の本音を声を上げて伝えていかないといけない」と語り、原爆展にスタッフで出席することを申し出た。
 家の塀に何枚ものポスターを貼り出している年配婦人は、「広島も長崎も思いは1つなのにこれまでバラバラだった。長崎でも被爆者団体は3派に分かれて、上層部は市民の話を聞く耳をもっていないし、自己主張ばかりしている。そんなものには、参加する気にもならなかった」という。
 「アメリカの犯罪を責めないで、ヘイヘイと従うだけでは核廃絶などできるわけがない。久間さんなど原爆展に引きずり出して市民の声を聞かせるべき。1人で怒っているだけではごまめの歯ぎしりだと思っていたが、原爆展では市民が力を合わせて長崎の思いを伝えないといけません」と語り、会場に来る子どもたちに体験を語ることを約束した。
 別の婦人も、兄弟を原爆で失った体験を堰を切ったように語った。
 あの日、隣のおばちゃんと大橋の酒屋に配給をとりに行った6歳の弟は爆死。浦上駅に動員されていた12歳の弟は、頭に傷を負って帰ってきたもののそのまま寝たきりになり、ぜんざいをつくってやると「姉ちゃん、汁だけでよかけん飲ませて」というので口に入れてやると鼻から出すほど衰弱していた。
 「その弟も9月になって“熱い、熱い…”といいながら亡くなった。1番下の弟は乳飲み子だったが、食糧がないので草ばかり食べて11月に死亡。苦労して子どもを育ててきた母も原爆症で亡くなった。我が家は、あっという間に遺骨が6つも並んで、父と妹と3人暮らしになった。カトリック教会では今でも原爆は“神の摂理”といっておとなしくしているが、これまで私は平和式典にも参加せず家で黙祷してきた。長崎の人間がもっと怒らないといけないと思います」と話し、子どもたちに思いを伝えることを承諾した。

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