いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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座談会・第5回長崎「原爆と戦争展」 暴かれた占領政策の欺瞞

長崎市では、8日間にわたって開催された第5回長崎「原爆と戦争展」が大成功した。アメリカの戦後支配の象徴的な位置を占めてきた長崎で、さまざまな欺瞞を振り払って長崎市民の世論と行動が勢いよく発展した。取り組みに関わった本紙記者と原爆展キャラバン隊として参加した劇団はぐるま座団員による座談会を開き、今年の特徴や成果、今後の展望について論議してもらった。
 司会 長崎で第5回目となる原爆と戦争展は、全市民的な非常に熱のこもった運動となり、原爆展を成功させる長崎の会をはじめ取り組んだ被爆者たちもすごい行動意欲になっている。
  経過から見ると、5月10日に原爆展を成功させる長崎の会を中心とする主催者会議を開き、下関原爆展事務局は5月16日から計7日間の宣伝行動をやり、ポスターが1500枚、チラシ約7万枚が長崎市内にもちこまれた。5回目ということで市民のなかでは原爆と戦争展が長崎の恒例行事のように定着していて自治会や商店街をはじめ市民が積極的にチラシを預かり、あっという間に宣伝は広がった。
 4月に劇団はぐるま座による『動けば雷電の如く』公演を長崎の会が積極的に取り組み、明治維新の誇りと現代社会の変革への思いが結びついて、原爆展に向けて被爆者たちの意気込みが当初からすごかった。被爆から1年後に市民によって収集された東本願寺長崎教務所の2万体の遺骨問題を取り上げた号外1万枚を配布すると、市民のなかで大論議になった。
 2万体もの無縁仏が納められているのに市民の多くが知らないし、市役所職員も知らない。その寺を移転させて26聖人の碑をつくり、平和公園では平和祈念像をはじめキリスト調の像ばかりがあって、みんな「おかしい」と感じているが、当たり前のような空気がつくられてきた。「帰ってこなかった身内がここに眠っているのか」という衝撃とともに、市内のあちこちで被爆後に遺体が焼かれたり、埋められているのになんの痕跡も残っていない場所が無数にあること、「碑があるのはまだいい方で慰霊碑もお地蔵さんもない場所がたくさんある」と大論議になった。長崎原爆の実態が隠され、真実が塗り替えられてきたことへの怒りは鬱積していた。
 司会 キャラバン隊の方はどうだっただろうか。
  2日間の街頭原爆展をやったが長崎の会の人たちの問題意識がすごく高くなっているし、結束力が強まっている。長崎の地に強力な運動母体ができてきたという印象だ。今年から協力者になったある婦人被爆者は、原爆手帳も持っていない。これまで自分は、一切語らずに来たがこれではいけないと決意を固めている。キャラバン隊がやった中央橋での街頭原爆展に駆けつけて、はじめてのチラシまきも猛烈な勢いでやっていた。商店を営んでいて忙しいのに炎天下で1日中チラシを配っていた。
  行動をするなかで会員同士の団結が強まっている。4月に、『雷電』を取り組んだが、社会的な立場や歩んできた人生はそれぞれ違う人たちで、はじめは疑心暗鬼もあったが、「現代を変えないといけない!」という思いで響き合った。原爆展をへて、今度はみんな一緒に広島に行くのをすごく楽しみにしている。この運動は少数派ではないから、どんどん広がるし、それが確信になっている。
  自分がやるだけではなく、地域の人や知り合いにかなり呼びかけて原爆展会場にたくさん連れてきた。商店街でも、『雷電』公演のときは地域をあげて協力してくれたが、原爆展も軒並み賛同していた。それぞれの会員の地域での運動になっている。
  新大工町商店街での街頭原爆展では、婦人被爆者が「私は地域の顔だから」といって帽子もかぶらずに来てチラシを持って各商店を回り、たくさんあったチラシがあっという間になくなった。全人生をかけてやっているという感じだ。
  今年から関わったある被爆婦人は、いろんな団体の世話役で忙しい人だが、「教室がはじまるまで1時間あるから」といって会場の受付をするなど協力を惜しまなかった。戦争体験者の男性は、はじめは病身で出て来るのが大変という感じだったが毎日会場に来て体験を語り、会期中にみるみる元気になっていった。

 市民が主体の大運動に 
  今年は、完全に市民が主体の原爆展になっている。受付は毎日、地元の人たちがやり、お互いに時間も調整して交替で勤めたし、「原爆を受けたのは広島と長崎だけではないか。これほど市民が主体になってやっているのになぜ市長が出てこないのか」「2万体の遺骨についても市民がやらなければいけないことではないか」と口口にいっていた。
  みんなが全長崎を代表しているという確信を持っているから断固としている。完全な多数派だし、既存団体は「自分たちの権利」ばかりを主張するが、この会はみんなのために献身的にやっているから怖いものはない。
  会長も「真の被爆者が声を上げないといけない」と強調していた。「日本はアメリカの植民地になって、必ずまた戦争に引きずり込まれる。儲けるのは商社だけで、若者は弾よけだ。今の平和はあっという間に崩れるんだ。若い人が立ち上がらないといけないし、真の被爆者を掘り起こして、生の声を頭に叩き込まないといけない」と何度も訴えていた。
  手帳ほしさに被爆者になる人や補償問題ばかり主張している既存の被爆者団体に対する市民の不信感はものすごく強く、ああいう会なら出たくないという人が多い。あれとは違うものだということもかなり認知されてきた。交流会の様子をずっと聞いていて、これなら安心だといって協力を申し出てくる人や、「今のうちに語っておきたい」と名乗り出る被爆者もいた。市民の語り継ぐ意欲は昨年以上だ。

 隠された真実表に 表面覆う虚像暴き・本物の勢力登場
  今年は、明治維新期の振遠隊の抹殺問題をはじめ、原爆でも表面で覆っていた虚像が大衆的に暴露されて、長崎の真実がかなり明らかになってきた。2万体の遺骨問題まできて「ここまで騙されていたのか!」という衝撃が非常に大きかったし、そこから本物の勢力が確信を持って登場している。
  2万体の遺骨問題への思いは深かった。この遺骨については全く知られていない。号外を見て教務所の月命日法要に行った被爆者が、7人しか集まっていなかったことに心を痛めていた。花を飾るところも線香立てもない。「亡くなった友だちの骨がたくさん入っていると思ったら申し訳ないので、せめて花立てや線香立てを立ててほしい」と要望してきたという。お経を上げに来るのも教務所なので他県のお坊さんばかりで長崎の者がやって欲しいという声もあった。
  「長崎には数えるほどしか被爆遺構が残っていない」という声は共通していた。爆心地にあった浦上天主堂も建て替えられ、周辺の学校の被爆校舎が建て替えられたのも全部意図的にやられた。負傷者が避難した防空壕などもすべて埋められている。
  そして、カトリックの「祈り」だけが宣伝されて、原爆はきれいに忘れられている。西坂にある「26聖人の殉教碑」についても実際には処刑された場所とは違うし、被爆遺骨を追い出して立っているのでは、26聖人も浮かばれないではないかという人もいた。カトリック信者の人も構図がわかると「なんということか」と怒っていた。原爆を受けた長崎人として、譲れないものがある。
  観光といってデタラメな歴史をつくり出すのは、坂本龍馬も同じだという声もあった。「アメリカも戦争ブローカーで大もうけをしているが、龍馬もそれに重なる。死の商人ではないか。なぜ持ち上げるのか」と市役所に抗議した市民もいた。
  龍馬は、勝海舟の弟子で幕府側と親密で、薩摩にも抱えられ、長州ともつきあう。武器商人だ。それが岩崎弥太郎と三菱につながる源流になっている。
  原爆投下の実態についても、かなりの人が証言していた。長崎市内の人はB29は茂木・天草方面から飛んできたというし、島原の人は、島原上空を飛んでいく音を聞いていた。小倉方面からではなかった。雲一つ無い晴天の空に、エンジンを止めたB29がスーッとやってきて、浦上上空で「糸を引くようにまっすぐ落とした」といっていた。はじめからカトリック地帯を狙ってやっている。
 小倉が曇りだったとか長崎でも中心部の賑橋辺りが標的だったが、それが風に流れたとか、雲間に見えた浦上地域に偶然落ちたといって、「神の摂理」とかいってきたが、そうではなかった。カトリックの受難という風にしてアメリカの日本支配のための意図を持ってやっている。被爆後、広島にはオーストラリア軍が入るが、長崎には3万人もの米軍がどっと押し寄せている。

 意図的な原爆遺構抹殺
  米占領軍は、「長崎に原爆の痕跡を残してはならない」という軍政を敷いていた。そして、戦後の長崎にかなり介入している。あのローマ人のような平和祈念像の建設が計画されたのも占領下で、朝鮮戦争がはじまった昭和25年だ。広島で原爆に反対するはじめての行動、50年8・6斗争が組織された年だ。あんな像がなぜ長崎原爆の象徴になるのか説明できる人はいないだろう。
  寺の関係者がいっていたが、戦後はGHQがものすごい宗教調査をやったという。マッカーサーは天皇のカトリックへの改宗をはじめ、すべての日本人をカトリックに改宗させるという願望を持って全国的に聖書を大普及したり、アメリカから大量に宣教師を送り込んだりした。しかし日本ではまったく浸透しなかった。
  教育現場をパンクさせた「興味と関心」というのはカトリックの教えだという。長崎の原爆資料館への入場者は、過去最低記録を更新中だというが、「祈り」路線への嫌悪感が広がっているということだろう。
  昭和37年はそうとうな抹殺の動きが重なっていた。まずは、振遠隊を祀る梅ヶ崎招魂社を「政教分離違反」といって抹殺する。そして、西坂では、東本願寺教務所を移転させた跡地に「26聖人の碑」がつくられる。片足鳥居で有名な山王神社の第1の鳥居も、トラックが追突したあと輪切りにされて諫早あたりに持っていかれたという。
  岩川町にあった水場も、たくさんの罹災者が押し掛けて亡くなった場所というが、37年から45年の間に埋め立てられた。長崎大学の被爆校舎も20年間くらいかけて建て替えられ37年につくられた第1研修棟の建設にはアメリカが出資している。
  昭和37年の時期は、橋幸夫の「天草四郎の唄」などが流行る。長崎駅のプラットホームでは「長崎の鐘」が流れる。1962年で60年安保斗争後の巻き返しとしてあらわれている。
  浦上天主堂が壊されるのは、昭和32年だ。原水禁世界大会の2年後だ。「当時の田川市長が渡米した直後に、保存するという方針を急きょ転換した。バチカンもはじめから取り壊しの意向だったが、バックにはアメリカの意向がある」といわれた。長崎はアメリカのセントポール市との姉妹都市提携をするが、そこはカトリックの拠点のような町らしい。そのようにしてアメリカの圧力を背景にして、長崎からはほとんどの被爆遺構が姿を消していった。
  ある住職がいっていたが、長崎のマスコミのなかでは「原爆とカトリックをいじったら飛ばされる」という定説があるという。だから2万体の遺骨問題を本気で取り上げるマスコミはないし、長崎でカトリックを批判するメディアはいない。そういう上からのインチキにみんな怒っている。
  長崎の人人はおとなしく祈ってばかりというのが作り話であり、実際はひじょうに自治意識や結束力が強く行動的で活発だという姿が明らかになった。幕末は、オランダとしか交易してなかったようにいわれるが、中国との交易関係が主で、奉行所の統率能力は弱い。自由都市としての空気が強い。それは明治維新の振遠隊になっていく必然性だ。
 おくんちももともとは反キリストではじまっているが、これも断固として継続している。長崎は水産業が基幹産業だ。自民党政府は反中国で政府間は対立しているが、それと対抗して日中友好でいくことで長崎の町が成り立っていた。長崎の人たちはもともと負けていない。
  戦後は県庁坂の脇は大波止に向けてバラックが建ち並んでいたというが、精霊流しの日になるとその窓ガラスがみんな割れていたといっていた。爆竹を鳴らして、銅鑼を鳴らして賑やかなもので、さだまさしのもの悲しい歌とは全然違うと語られていた。
  原爆でも表面を覆っていたものを突き破って、すごい力を発揮している。会の人たちを見ていてもすごく行動的だ。長崎の元気良さというのは全国からしても気持ちがいい。
 E みんな長崎の歴史に誇りを持っているし、歴史の真実でいくとなると断固支持する。「真実が隠されて、ウソがはびこっている」というと「そうなんだ!」と返ってくる。

 戦争の接近を危惧 教育の問題も論議に
  長崎を覆っていた欺まんの暴露にともなって、最近の戦争の接近に危機感がすごく強いのも特徴だった。「もう戦争がはじまる」という切迫感が強い。教育座談会の記事が強い反響を呼んだ。戦争体験者が子どもの教育に関心が高いのはそういう問題意識からだ。
  退職教師の会が集団で参観にきたが、まさにそういう意識だった。「1人、1人の体験は限られているが、ここに来たら戦争の全体像がわかる」といって、日中戦争のパネルから大論議をしながら見ていた。「最近は、国民の知らないところで国民投票法とか自衛隊の海外派遣とかがどんどん国会を通過していくが、テレビではスポーツやイベントのバカ騒ぎばっかりやっている。教育現場もデタラメだが、日教組は全然力がない。長崎の教育運動は平和教育が原点だ。自分たちは絶対にそれをやらないといけないと話している」といって、教育座談会記事にはすごく喜んでいた。野放し教育で動物のような子どもを育てていることが、「戦争の準備なんだ」とピタッと結びついていった。
  島原からも中学校の先生が見に来て、パネル冊子を買って帰ったが、学校に持っていくと同僚教師たちがほしがったので15冊まとめて買っていった。現場の教師たちの真剣さも目立った。長崎の教育崩壊は特別に深刻だ。
  行政もアメリカ型教育改革に飛びついている。小学校の学校選択制など早早と取り入れているが、「駿ちゃん事件をはじめ、選択制になってからいろんな子どもの事件が起こり始めた」という教師もいた。
  子どもを連れてきた児童クラブの先生は、「選択制で学校に地域性がなくなって学校の問題を地域に呼びかけて解決することができなくなっている。学校でも地域学習がなくなって隔離状態になっている。これでは教育にならないし、地域も結束力がなくなって寂れていく。いいことはなにもない」と訴えていた。「最近は、悲惨な被爆写真は見せないなど、子どもが現実から切り離されている。人の死についてゲーム感覚だから簡単に生き返ると思っている。こういう現実こそしっかり学ばせないといけない」といっていた。
  大学生をはじめ若い人や、被爆2世、3世の世代も、「最近はきな臭い」「子どもに見せておきたい」といってたくさんきた。親が被爆体験をほとんど語らなかったということとあわせて、「自分たちの世代が引き継がないといけない」という使命感や、親たちが体験した苦しみを自分のことのように語っていく人も多かった。
  「親が体験を話さなかったのは、ただ悲惨だったから思い出したくないということだけではなく、それを語らせない力が働いていたんだ」という人が何人もいて、体が震えるという人もいた。飯のためにやる既存の団体や市長が公費を使ってオバマに会いに行ったことなどに怒り、もっと使うべきところがあるはずだといっていた。
  広島との違いも論議された。広島には、大きな慰霊碑が市内中心部だけでも200ほどある。なぜ長崎はこんなに少ないのかと驚いていた。被爆建物も広島には旧日銀支店をはじめかなり残っているが長崎は少ない。
  広島も放っていたら長崎と同じになっていた。終戦直後は慰霊祭に米軍のパイロットが壇上に上がるという調子で市民はお参りもできなかったが真向から原爆反対の意志を示した50年8・6斗争でひっくり返った。慰霊碑があちこちにつくられたり、爆心地にある供養塔に市民が集まるようになったのもあそこを境にしてはじまる。市民のところでは各町内で慰霊碑を守って慰霊祭もずっと続いている。長崎では2万体の遺骨まで放置されている状態がつづいている。その分かれ目は50年8・6斗争だ。それが60年をへて峠三吉を持ち込んで大歓迎され、5年目にして様相が変わってきたということだ。
  長崎は、爆弾の威力も広島より大きく、一家全滅のところが多い。爆心地付近では、両足がもげたり、腕や首だけが転がっていたとか、内臓が飛び出していたなどの惨状はすさまじく、広島とはまた違う悲惨さがある。
  4㌔以上離れている花月でも爆風で柱が曲がっていたり、寺町の晧台寺の屋根も持ち上げられている。中島川沿いでは、風頭山で跳ね返った爆風で爆心地から逆の側の瓦がみんな飛んだという家が多い。長崎には500㍍を越える山がないので、地上500㍍からの爆発が効果的だということをわかっていて落としている。そういう実態もあまり解明されていない。
  被爆者たちは「今年は見に来る人の真剣さが昨年とは違った」という。長崎にもイージス艦が毎年来るし、米軍港になっている佐世保にも関心が強く、戦争への危惧(ぐ)が高まっている。
  最近は、北朝鮮に先制攻撃をやれとか、自衛隊のソマリア遠征など、まさかと思うことをやるし、知らない間に戦争になっていく。気づいたときは戦争に突入しているという情勢だ。そんなときに若者がボーッとしていたらいけない。戦争の肉弾にされる。だから熱が入っている。またあの苦しみを繰り返すことへの怒りがパワーになっている。
 「みんなが貧乏になってまた戦争になる」というパネルはそういう全体を表している。個人主義や自己中心がもてはやされているが、戦争になれば自由もなにもなく吹っ飛んでしまう。全個人の運命はひっくり返されてしまう。自分のことしか考えないバカげたことをしていたら戦争でひどい目にあう。社会のことをまず考えないといけないとみんながいっている。
  学生の問題意識もそうなっている。「自分の関心ばかりで生きてきたが、そんな世の中ではない」ということを実感しはじめている。就職がないし、自分の意識と関係のないところで戦争になって運命を変えられてしまう危機意識は高まっている。それなら社会のことを先に考えないといけないし、社会全体をよくすることで自分たちの道も開けるということだ。年寄りがそれを強調しているし、若い人がそういう問題意識になっている。

 社会変革求める労働者
  現役労働者世代も子ども連れなどで多かった。食えないようにして戦争にしていく。これは戦前もそうだし、アメリカの現状もそうだ。だから労働規制緩和でわざとそうしている。労働者の首を切ったり、非正規にして食えない様にして、兵隊に行ったら家族を養えるという状態をわざとつくっている。
  自衛隊相談員の人がいっていたが、これまでは応募者が少なくて勧誘して回っていたが今はどんどん来るから審査も厳しくなって、余るくらいだという。普通に働いていたら食えないから志望者が増えている。戦争と直結した動きだし、戦争のための貧困だ。
  いくら兵器があっても兵隊をつくらなければ戦争はできない。そのために労働者を動員しなければならないし、子どもたちを兵隊として育てる。そういう危惧を年寄りは体験的に持っている。これが学生運動、労働運動につながっていったら本格的になる。その労働運動が経済主義、組合主義という自分たちの利益、要求だけで、他の人を犠牲にして自分が生きるというものに変えられてパンクしている。だから、そこを大きく売国と戦争に反対して、働く者が主人公になる社会をつくるという志の高い運動だ。戦争を押しとどめるたたかいが労働運動の第一義的任務であり、社会を変えるために全人民を代表して先頭切ってやる。50年8・6斗争は労働者がそういう使命感で団結して、占領軍と真向から対決して、街頭集会と駆け足デモをやって局面をガラッと変えてしまった。
  大資本が力を持っている根拠は労働者の力だ。組織的な労働を支配しているから独占資本は強い。つまり資本主義社会においては権力は資本の側が持っているが、本質的には労働者の方が強いということだ。それがバラバラにされている。団結し、統一戦線で全人民を団結させて、国際連帯をすれば負けるわけがない。そこの運動になっていけば本格的な力になっていく。平和運動は労働者が中心の運動にしていくのが課題だ。
  「今は政治が地に落ちて、財閥が好き勝手に動かしている」と戦争体験者がいう。郵政民営化で西川みたいな民間社長を守って、国民を代表するべき大臣が引き下がる。国民の税金を使って私企業が好き放題している。「資源のない国を豊かな国にしていったのは国民の努力以外のなにものでもないはずだが、その国民を姥捨て山に棄てる。国民がおるから政治家はぬくぬくできるのになぜ国民をこんな目にあわすのか。国の滅亡ではないか」といっていた。

 軍需生産の強化に怒り
  規制緩和で派遣労働者を搾り上げて儲けた結果、内需は縮小して外需もパンクで市場がない。そこで独占資本集団が狙っているのが戦争特需・軍需生産だ。みんなの生き血を吸って儲けようというのが大企業の腹だ。武器輸出3原則の撤廃などといっている。自民党はアメリカが弱体化しているので、肩代わりで戦争をやりますよというのを積極的にアピールしている。
  世界一高い兵器はアメリカ製だ。政府がほしがっているF22は結局1機400億円ほどするらしい。三菱の労働者の話では、アメリカの最新鋭は日本には持たせずにイージス艦でもグレードを下げて、それを高い値段で買わされているという。中身はすべてブラックボックスのまま買わされ、勝手にいじれない。
  死の商人のために死ななければいけない。労働運動の出番だ。急激に情勢も動くし、世論は転換していく。オバマが登場して平和になるかといったら違う。アフガンをあくまでやるというし、北朝鮮をめぐっても逆に緊張している。自民党政府もかえって鼻息が荒くなって、安倍晋三のような者が集団的自衛権の行使を衆議院選の争点にしようと叫んでいる始末だ。それを押しとどめる力を原爆展運動は示している。あれだけの大衆が共鳴して動いているということがその力を証明している。
  戦争を阻止するたたかいに挑まなければいけない。それを人民は切望している。
  広島も被爆者たちが連日にわたって学校をめぐるなどすごい迫力だ。高齢を押して大奮斗しているが、全国的に沸き立っていくと思う。
  劇団はぐるま座は、原爆展運動の記録をテーマにした新しい現代劇を創作中だ。これが本格的に展開できるようになれば、大きな意義を持つことになる。公演活動が即平和運動で、平和運動が公演活動だ。全国に新鮮な政治勢力を結集していく力になる。
 司会 今日はこの辺で。

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