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下関原爆被害者の会総会 日本立直しへ被爆体験語る使命

 下関原爆被害者の会(伊東秀夫会長)は8日、平成23年度総会を下関市の西部公民館でおこなった。昨年1年間の活動を報告・総括し、とくに今、東日本大震災と福島原発大事故を受けて日本社会のあり方をめぐって大きな関心が動いているなかで、被爆者として体験を語り継ぐ役割が非常に大きくなっていることが確認された。
 
 上関原発の白紙撤回を決議

 総会ははじめに、全員で原爆死没者、東日本大震災の犠牲者へ黙祷を捧げた。その後伊東会長が「福島第1原発事故は地震、津波に追いうちをかけるように、事故後2カ月たっても収束の見通しがなく、放射能が垂れ流されている。かつて“絶対安全でクリーンなエネルギー”が、今は“想定外”。放射能の恐ろしさを体験した者として激しい憤りを持っている。私たちはかつて豊北原発を県民が団結して阻止した経験を持っている。被爆体験を語り継ぐ活動を通じて、原発の恐ろしさを訴え、原発の停止、建設の中止にもっていきましょう」と挨拶した。
 続いて来賓として、下関市役所保健予防課の河本敏子氏が中尾下関市長のメッセージを代読。「下関原爆被害者の会の被爆者相談、原爆と戦争展の開催など、日日の活動に敬意を表する。戦争を直接知らない世代の増加による社会的な認識の低下、震災にともなう福島第1原発事故の放射性物質の汚染には、深い悲しみを感じておられることと存じる。下関市も職員一丸となって、核兵器廃絶の真の恒久平和にとりくんでいきたい」とした。
 また山口県被団協会長の竹田国康氏、原水爆禁止下関地区実行委員会の平賀彰信氏が挨拶。平賀氏は、3月11日以後シーモール下関前でおこなった原爆展パネル展示で寄せられた鋭い反応を語り、「市民の意識が高まっているなか、運動を強めていかないといけない。被爆者のみなさんの体験が貴重だ。運動の発展のためにみなさんと一緒に頑張っていきたい」とのべた。ここで全国から総会に寄せられたメッセージが紹介された。
 続いて昨年度の活動報告がされた。平成13年からの被爆者の本当の思いを語る原爆展活動を皮切りに、この10年間で発展してきた運動を舞台化した劇団はぐるま座による『峠三吉・原爆展物語』の広島、長崎、沖縄、そして今年3月の東京公演が大きな反響を呼び起こしたことが喜びをもって報告された。長周新聞創刊55周年集会への参加、また被爆者相談事業、とくに被爆体験を語り継ぐ活動として市役所ロビーでおこなった「原爆と戦争展」、福田正義記念館での「下関原爆と戦争展」には、市内各地の小学校や市大、水産大などの若い世代が強い問題意識をもって参観したことが報告された。市内5つの小学校での被爆体験を語り継ぐ活動、教育集会への参加、そして今年1月の下関市議選では、市民の切実な要求をとりあげて市政に反映させるため、事務局スタッフ・本池妙子氏の立候補を会をあげて支持し、当選のために奮斗したことなどが報告された。
 今年度の活動方針としては、これまでの活動の方向と積み重ねに確信を持ち、被爆者や戦争体験者の本当の思い、戦争反対の思いを代表し、広島・長崎をはじめ全国の仲間と連帯して運動を進めていくことが確認され、挙手によって採択された。また総会宣言、上関原子力発電所建設計画の白紙撤回を求める決議を採択し、「原爆許すまじ」を合唱して閉会した。
 閉会後には料理を囲んで懇親会がおこなわれた。乾杯の後、恒例の青年合唱団による「花をおくろう」「ふるさと」の2曲が披露された。小中高生平和の会の高校生リーダーたちも参加、「原発のことなども被爆者の方方に教えてもらいながら頑張りたい」という決意や平和の会代表の今田一恵氏の挨拶に温かい拍手が送られた。

 東北に心寄せ論議白熱 総会後の懇親会

 その後は歌の披露なども含めた交流となった。とくに東日本大震災、福島第1原発事故について活発な論議が交わされた。
 被災現地の視察から帰ったばかりの本池妙子市議が、被災地の報告をおこなった。酪農を中心に成り立ってきた飯舘村では、退避命令が出され、国から行き先もないままに「出て行け」といわれている状態であること、また、漁業・水産加工が盛んな石巻市では、津波で壊滅的な被害を受けている現地住民の復興の意志が固いことや、国、県などの力が必要になっているときに動こうとしないことへの怒りが出ていたことが報告された。そしてそれ以前からの農漁業の衰退に対して、生産振興を掲げて被災地の復興、日本の立て直しを勝ち取ろうと話された。
 報告を受けて被爆者からは、復興をする気もない政府への憤りとともに、戦後を生き抜いてきた自分たちの体験と重ねて、復興へ向けて現地を激励する熱い思いが口口に語られた。
 3人の男性被爆者は「一番悪いのは自民党だ」「いや、もっと悪いのはアメリカだ。原発で特許料をとっていることははじめて知った。今は原発から何㌔でマスクをしたりしているが、私たちは原爆が投下された街でランニングシャツ1枚で生きてきた。政府は何㌔、何十㌔としきりにいうが、責任をとりたくないためだけにいっている」「今、原爆の訴訟で爆心地から3・5㌔の被爆者に補償をするかしないかとやっているのに、福島原発では30㌔も。矛盾しすぎだ」とのべた。造船の技術者だった男性は「原発が爆発したら原爆どころではない。事故が起きれば人間の手に負えない。一番大事なのは電源なのに、いざというときの対策もなく原発を動かしていたことが許せない」と話した。
 婦人被爆者たちも「日本に原発が五四基もある。つくりすぎている。日本はフランス、ドイツなどとは地理的な条件も立場もまったく違う」「原爆が落とされて“草木も生えない”といわれたが、避難しろといわれるわけでもない。放射能のなかで生きてきて今がある。福島県では、村を出れば永久に住めなくなるのではないか。原爆投下直後は知識がないだけで、被爆地で生活するしかなかった。福島県に住めないというのはおかしい」と論議になった。
 被爆体験や戦争体験を語り継ぐことが重要になっているなかで、下関市生涯学習センターが「内容がよくない」と原爆と戦争展の開催を断ったことにも「どうしてこんな時期に止められるのか。市からだろうか。被爆者はみな年をとっても一生懸命やっている。おかしい」との意見も出された。
 別の婦人は「爆心地から2・1㌔のところで被爆した。8月11日には弟も亡くなった。自分も原爆症になり、毎日おう吐でやせ細り、もう死ぬかと思ったがここまで生きてきた。だれのなんの援助もなく、焼け野原の大地とたたかってきた。そうやって同じようにみんな生きてきたし、人間の持つ力はすごい。それを今、現地の人たちに伝えたい」と話した。
 東日本現地にも復興する力があると確信し、また今の日本の状況のなかでの被爆者の役割が重要になっていることにも確信を持って、一緒に頑張ろうと、意気込みのあふれる総会となった。

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