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呉「原爆と戦争展」が開幕 対米従属打開へ鮮明さ増す意識

広島県呉市の大和ミュージアム4階で4月29日、第7回目となる「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる広島の会)が開幕した。旧日本海軍の要塞地帯としての歴史を持つ呉市では、戦時中には全国最大規模の呉海軍工廠を抱え数数の戦艦の出撃基地となったことをはじめ、数千人の犠牲者を出した呉空襲、隣接する広島市の原爆投下など深刻な戦争体験を市民が語り継ぐ恒例行事として広がりを見せてきた。とくに、日本をめぐる戦争情勢が緊迫するなかで同展の開催は共感を広げ、被爆者、空襲体験者、戦地体験者、傷痍軍人会、空襲慰霊碑の保存会、軍艦慰霊碑世話人などの体験者・遺族をはじめ、自治会長、女性会連合会、商店街連合会、喫茶店組合、教員、医師、僧侶など120の個人・団体が賛同協力者となってとりくみを展開。全小中学校・保育園をはじめ市内に約3万5000枚のチラシとポスター200枚が配布、掲示されるなか、平和を求める全市的な熱意と期待を集めて開幕を迎えた。
 
 「今語らねば」と戦争体験者

 初日の午前10時からは、広島の会や呉市民など30人が集まって開幕式が開かれた。呉市在住で海軍特殊潜航艇乗員であった上田勲氏が司会を務めた。
 はじめに、原爆展を成功させる広島の会の高橋匡副会長があいさつ。
 高橋氏は、「最近の核を巡るきな臭い国際情勢のなかで、日本政府の動きに強い憤りを覚える。昨年10月の国連総会では核兵器廃絶の共同声明に日本は賛同の意を示さず、先月にも核兵器に関する国際会議で核兵器の使用禁止を求めて74カ国が賛同したアピールに日本は署名しなかった。なにが被爆国か! 政治家はなにを考えているのか! と思わざるを得ない。しかも、外相は広島1区の代議士であるにもかかわらずなんら誠意も示すことなく、アメリカの“核の傘”におもねって被爆地を裏切る情けない姿をさらした。これが今の政治家の象徴的な姿だ。私たちは、多くの市民とともに粘り強く運動を続けていかなければならない。大和ミュージアムでの原爆と戦争展は昨年も強い反響を得ており、今年も参加を促していきたい」と力強く呼びかけた。
 次に、賛同協力者を代表して呉市在住の松本健三氏が発言。
 小学2年生のときに日中戦争が勃発し、戦時下での幼少期を過ごして昭和18年に広島市の県立工業学校へ入学したため多くの級友が原爆の犠牲になったことを明かし、「彼らは4月に入学して広島市中心部の県庁付近で建物疎開に参加していた。原爆投下後、家族が探しに行っても遺骨も跡形もなく消えてなくなっていた。学校の100年史には“溶けて流れていった”と表現されており、いまだに死に場所さえ定かではない。青春にも達していない彼らが、一発の原爆によってこの世から消されてしまった無念はぬぐえるものではない。親が招集で戦地へ行き、息子たちを奪われた家庭ではたいへんな戦後を強いられた。こういうことが二度とないようにこれから原爆のない幸せな時代のために頑張って運動したい」と抱負をのべた。
 さらに、女子挺身隊の一員として呉空襲を体験した高橋節子氏が登壇し、「海軍工廠では軍極秘扱いの書類を各部に届ける仕事をしており、戦地から兵器や物資の注文も受けていた。はじめのうちはスムーズに供給されていたものが、戦火が激しくなるにつれ“材料不足につきしばし待て”となり、最後には有無をいわさず中止の判を押して送り返していた。戦地のことを思えばとても胸が痛んだが口外無用であり、市全体が要塞地帯であったため一切のことが知らされないまま戦争は進められた」と要塞都市特有の情報統制の実態をのべた。
 また、昭和20年7月1日の午後11時半ごろから始まった呉市街地への空襲のなかを家族で逃げ惑った経験をのべ、「呉の地形は三方は山で囲まれ、海側は海軍が固めて出ることはできず、市民は逃げ場のない“袋の中のネズミ”だった。そこで米軍の作戦は、まず山裾をなぞるように焼夷弾で燃やし、人人を中央部に集めて爆弾を集中投下するもので、私の家のあった市中心部はまるで火山口をのぞくように一晩中燃えていた」と憤りをのべ、「本当の苦しみは戦争が終わってからだ。働き手を失い、衣食住のないなかを家族が生きていくことがどれだけたいへんだったか考えてほしい」と訴えかけた。
 最後にスタッフを代表して呉市在住の野曽美智子氏が、「両親が被爆者だったが生前にほとんど体験を聞くことができなかった。昨年の展示会に参加して被爆者の方たちから話を聞くなかで、両親の経験したことや思いが少しずつわかってきた。自分のことばかりでなく、他人のことを思いやる心をもつこと、命の大切さを若い人たちに伝えるため頑張りたい」と決意をのべた。

 世代こえた大交流の場 2日間で450人参観 

 会場には、市民や広島、江田島などの周辺住民をはじめ大和ミュージアムを訪れた観光客など2日間で約450人が訪れ、熱のこもる交流がおこなわれている。親子連れや若い世代の姿も多く、被爆者や兵役経験者から当時の体験を熱心に聞き、「これからの日本を考えると危うさを感じる」「体験者の思いを伝えていきたい」と語り、20代から40代を中心に20人が新たに賛同者となっている。
 開会式が終わると同時に、「学徒動員の日々」と題する手製の紙芝居を広げて参観者に語り出した婦人は、女学生として寄宿舎で集団生活をしながら海軍工廠で働いた自身の体験を自筆の絵とともに証言。
 当時、広島県や島根県の19校の女子学生が空腹に耐えながら火薬の調合や手榴弾づくりにかり出されていたことを語り、「なんのための作業なのかさえ教えられないなかで懸命に作業に徹していた。昭和20年3月、戦艦大和が出撃するさいは“我が大君に…”と出征兵士を送る歌を歌いながら手を振ったが、沈没を前提とした特攻作戦とは思いもかけず、大和沈没を知ったのも戦後になって本で読んでからだった。3000人の若者たちの姿が目に浮かび、同級生で集まるたびに“死ににいく人たちにあんな歌を歌うべきではなかった…”と語りあっている。亡くなった人たちに代わって平和のために語り継いでほしい」と訴えた。会場の一角に展示された「呉の戦時下の動員学徒の生活」を物語る写真資料や空襲犠牲者の慰霊碑も紹介され、参観者の注目を集めた。
 音戸町在住の70代の男性は、呉空襲で市内が全焼し、「いくつもあった横穴式の防空壕では、入り口を炎でふさがれて何百人という人が防空頭巾をかぶったまま蒸し焼き状態で死んでいた。海軍工廠は一部で2回しか空爆を受けてないのに比べて、明らかに市街地を狙った空襲で酷いやり方だった。昭和20年の7月26日に兄が広島市の野砲隊に招集されて原爆で死んだ。翌日に探しに行くと、野砲隊があった西練兵場では2㍍おきに白骨が並んでいて、朝礼の最中の被爆だったことがわかった。あんな爆弾を落として何万人も殺してなにが民主主義か」と語った。
 「呉にはたくさんの艦船が停泊していたが、戦艦大和が出撃するときにすべての船から重油を集めていったので身動きがとれず、山の木や枝をかぶせて偽装していたが次次に爆撃で沈められた。テニアン、硫黄島、沖縄まで占領したアメリカにとって空爆はやりたい放題で、日本に戦争を続ける余力はなかった。今の日本はアメリカのいいなりになっているが、この犠牲がむだにされることがないように若い人たちが真剣に受け継いでほしい」と語った。
 市内で商売を営む男性は、「市内では黒焦げの死体がブスブスと燃えていて、本町公園では何百体もの遺体を焼却したが慰霊碑一つ建っていない。親族を探しに広島市に行った母も白血病で亡くなり、姉も36歳で亡くなった。だが原爆にあったことを口に出せば、就職も結婚もできないためずっと黙ってきた」と明かした。
 「呉市ではIHI(石川島播磨重工)も造船から陸上の橋梁建設などにシフトし、淀川造船、神戸製鋼も撤退して中小の鉄工所も廃業が増えている。若者が働く場がなく、人口減少は全国でもトップクラスなのに市は130億円もかけて市庁舎を建て替えるといっている。政治家が国民のことより自分のことで、食料自給率が40%なのにTPPをやるし、郵貯も医療や保険もアメリカに売り渡す。アメリカは日本を丸裸にして、原発事故が起きようが飢え死にしようが後は野となれ山となれだ。戦時中、一番の苦しみは食料不足だったが、国民が賢くなって農漁業から立て直していかないとまた大変な時代がくるぞ」と語った。
 職場の仲間とともに訪れた40代の男性は、「最近の政治家の情けなさにあきれていたが、戦争から続くアメリカの政策に引きずられていることがよくわかった。国防軍とか集団的自衛権も“自主防衛”といいながら、アメリカの代理をさせられるだけではないのか。アメリカからの年次改革要望書とか信じられないことが裏でやられているが、アベノミクスでも市民の生活がこれからよくなると思えない。実際に自分の会社でも仕事がないから平日も併せて連休になっている。大企業は海外に出て行き、働く人間は戦前の兵隊のような扱いだ。日本のことを考えている政治家がいないことに腹が立ってしょうがない」と語って協力者になった。
 呉市在住の60代の男性は、「思いがけずこのような展示に出会えたのがうれしい。今だからこそ戦争の経験を知らせないといけないと思う。呉では戦争の華華しさが強調されがちだが、その実態は筆舌に尽くしがたいものだったことがよくわかる。今も北朝鮮が吠えているなか、火に油を注ぐようにアメリカも軍事演習をやる。呉からも艦船が出て行っているが、日本が巻き込まれたら被害を被るのは国民だ。撃ち合いを始めてからでは遅い。戦争を起こさせない対処をするべきだと思う」と話した。
 呉大和ミュージアムでの原爆と戦争展は4日までおこなわれている。

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