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長崎「原爆と戦争展」主催者会議 戦争させぬ為語る」と被爆者

長崎市中央公民館で18日、6月中旬に開かれる第九回長崎「原爆と戦争展」(主催/原爆展を成功させる長崎の会、下関原爆被害者の会、原爆展を成功させる広島の会)の主催者・賛同者のつどいが開かれた。長崎市内の被爆者、商店主、主婦、被爆二世、介護士をはじめ、下関原爆展事務局、劇団はぐるま座団員などが参加。被爆・敗戦から68年目を迎え、自民党・安倍政府による米軍再編、TPP交渉参加、憲法改悪など、320万人もの深刻な犠牲をともなった戦中、戦後の歴史的教訓を根底から覆す恥知らずな策動が進行するなかで、被爆地・長崎の市民世論を束ね若い世代、全国に発信する大交流の場にしていく気迫のこもる論議となった。
 冒頭、原爆展を成功させる長崎の会の吉山昭子会長の挨拶に続き、共催者として、下関原爆被害者の会の大松妙子会長、原爆展を成功させる広島の会の重力敬三会長のメッセージが紹介された。
 大松氏は、下関市でも修学旅行前の小学生たちに体験を語り継ぐ活動が活発化していることを報告したうえで、「今の政治家、官僚は、自分の利権ばかり考えているようにしか見えない。国民の幸せを守るべき総理大臣が、原発廃止を見直し、憲法改正を叫ぶなどしているが、福島原発事故によって東日本に荒廃をもたらした責任は重く、許すことはできない。絶対に若者を戦争に送るわけにはいかない。長崎、広島、沖縄の皆さんと固く手を結び、生かされた者の使命として全国、全世界に真実を伝えよう」と結んだ。
 重力氏は、68年前の8月6日と9日、人類史上もっとも残酷な兵器である原子爆弾が広島と長崎に投下され、二十数万の老若男女が焼き殺され、今なおガンや白血病の恐怖と子孫への影響を心配していることをのべ、「安倍内閣は、憲法を改定して戦争に参加しようとしている。私たちは平和運動の名において阻止しなければならない」と同展の成功に期待を寄せた。
 続けて、長崎の会事務局からとりくみの概況や計画が報告された。
 同展には18日までに被爆者、戦争体験者、被爆二世、自治会や商店街、老人クラブ、医師、寺、教育関係者、学生など現在110名をこえる市民から賛同が寄せられており、11日から毎週土日におこなわれている下関原爆展事務局スタッフによる市内宣伝活動では、先週だけで560枚のポスター、5700枚のチラシが配布されている。「9年間継続して開催してきたことで市民のなかで原爆展が定着し、今年は会場がより繁華街に近い市民会館になったこともあり、商店街や地域をあげて軒並みポスター掲示をしてくれる状況になっている」と報告。
 また、既存の運動のように原爆問題を被爆者個人の補償問題だけに切り縮めたり、原爆を語って一部の政党政派や個人の金もうけに利用するのではなく、「全市民を代表して、私利私欲なく、平和のために原爆と戦争の真実を伝える」運動への共感が一段と強く、「市民による純粋な運動だからこそ協力したい」と賛同や寄付が寄せられている特徴も報告された。
 また、先日16日には、多くの市民の協力のもとで長崎市公会堂において劇団はぐるま座による『動けば雷電の如く―高杉晋作と明治維新革命』の公演がおこなわれ、約300名が観劇。「明治維新による独立と世直しを成し遂げた父祖たちの誇りを受け継いで、若い人たちが自分のことよりみんなのために尽くす生き方や、よりよい社会を作るために力を合わせることの大切さに強い感動を寄せており、続けて開催される原爆と戦争展への協力の輪も一段と広がっている」と報告された。

 大宣伝へ行動意欲増す 若者の変化に応え 

 若い世代の意識の変化に応えて、学校や大学などへ参観やスタッフ協力などの働きかけを強めていくことなども提案された。
 その後の論議のなかでは居住区の学校に呼びかけに出向いたり、積極的に宣伝をおこなう意欲が語りあわれた。
 商店を営む婦人被爆者は、「原爆の経験が今となっては想像すらできない昔話のようにとらえられる傾向があるが、現代の若い人には後ろ向きの論議ではなく、前を向いていくためにこそ知る必要があることに気づいてほしい。眼鏡橋やグラバー邸などを含むこの中心市街地でもたくさんの遺体を焼いたことや、小学校の運動場が火葬場になったことなど知られていないことが山ほどある。身近なところから伝えていくことが必要」とのべ、近隣の小学校に直接呼びかけに出向く意欲をのべた。
 男性被爆者は、「昨年初めて8月6日の広島に行ったが、自分たちが真剣に向きあえば子どもたちも身動きもせずに聞いてくれることがうれしかった。被爆当時は虫除けスプレーどころか、満足に水さえ飲めず、私の目の前で死んだ友だちの足を木のツルで縛って運び、トタンの波板に乗せて木枝をかぶせて焼いたりもした。そういう経験も含めて人としての生き方を真剣に問えば、些細なことで人をいじめたり、自殺したりする子どもにはならない」とのべた。
 また、「最近ではホームルームがない学校もあると聞くが、子どもを野放図にするだけでは意思の疎通もできず、教師も子どももなにを考えているのかわからない。私たちの時代には、子どものなかで役割分担があり、集団で物事を進めていた。集団教育のなかで善し悪しをきちんと教えるべきだ」とのべ、校区内の人たちとともに学校への呼びかけをしていきたいと語った。
 別の男性被爆者は、橋下大阪市長が公娼制度を肯定したり、石原慎太郎が「あの戦争は侵略ではない」と発言したことに触れ、「連合国側からの経済封鎖があったのは事実だが、そのときすでに日本は中国へ侵略していた。それを横取りしようとしたルーズベルトがABCD包囲網をかけただけの話だ。戦争を知らない政治家が幼稚な歴史認識をさらしているだけで、日本の恥でしかない」と語り、長崎でも貧しさから「からゆきさん」や「羅紗面」(外国人の妾)として女性が身売りする制度があったことにも触れて「そんなことを直に知っている人間は安易にあんな発言はできない」とのべた。
 また、「私も茂里町の三菱兵器で被爆したが、ありのままの悲惨さを見ているためこれまで口をつぐんできた。だが、なんにも知らない安倍首相はこんな時期に、憲法を変えて国防軍を作るなど、岸信介のマネごとでまた戦争をやる国作りをしようとしている。こんな時期だからこそ戦争を知らない若い世代に、戦争の本当の恐ろしさを教えないといけない。あんな首相についていけば日本は滅びる」と激しく思いを語った。
 論議では、戦後の長崎市内では進駐したアメリカ兵が丸山の遊郭などを接収して遊んでいたり、浦上の教会を「殉教地」のように持ち上げて「原爆=祈り」というムードを作っていったことや、諏訪神社の奉納祭りとして培われてきた「長崎くんち」は存亡の危機に追いこまれたことなどが語られ、「原爆の火は中島川まで延焼し、旧市内の町内ではくんちで使う船や衣装が焼失したり、進駐軍が珍しがって持ち帰ったりした。それでも町民は家財を持ち寄って、風呂敷を腰に巻いてでも奉納踊りを復活させた」「諏訪神社にはキリスト教対策で踏み絵が置かれていたがペリー来航の時期に撤去させられたという。敗戦後も教会が持ち上げられるようになったが、アメリカはあのころから長崎文化をにらんでいたのだ」など戦後の経験とあわせて語りあわれた。
 婦人被爆者は、「被爆直後は、爆心地の浦上だけでなく中心地でも県庁から火が出て周囲に燃え広がった。浜町界隈でも爆風で家が傾き、わが家も屋根が吹き飛んだので、被爆後3日間は墓場で寝泊まりした。その後は、眼鏡橋や築町でも毎日のように死体が焼かれていたし、この辺りでもヤケドもせずに元気だった人が、原因不明で翌日コロッと死んでいった」とのべ、「思案橋や浜町などでも主要な市場はすべて戦後のヤミ市が発祥。被爆後の復興は中心部から始まっているのだが、あまり知られていない」と語った。
 原爆と戦争展を通じて、全市民的な被爆と戦争の経験を掘り起こしていくとともに、若い世代と切り結んで長崎市民の世論を発信していくことが確認された。

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