いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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「気づいたら戦争だった」 現代と酷似する大戦の経験 報道はみな大本営発表

 秘密保護法や集団的自衛権の行使容認など、戦時国家体制づくりを進めてきた安倍政府がイスラム国の人質事件を契機にして自衛隊派遣を口にし始めるなど、一気に戦争にのめり込もうとしていることに全国的な憤激世論が高まっている。70年前の大戦で親、兄弟、友人を無残に殺された経験を持つ人人のなかでは、かつての無謀な戦争に突っ込んでいった時代の空気に酷似していることが語られ、戦犯の孫が再び国民を泥沼に放り込もうとしていることへの強烈な怒りが高まっている。
 
 無残に殺された320万人の国民

 「戦争は、“今日からやります”といって始まるものではない」「気がついたら戦争になっていた」と、多くの戦争体験者は語っている。日中全面戦争に突入していった当時を知る人は、すでにその多くが亡くなっており、子どもの頃に経験した人がほとんどである。しかし安倍首相が「非道、卑劣極まりないテロ行為に強い怒りを覚える」「テロリストたちを決して許さない。その罪を償わさせるために国際社会と連携する。日本がテロに屈することはない」とくり返す姿や、安倍政府に対する批判がマスコミによって封殺されていく様が当時を想起させるものとして、強い危惧が語られている。


 80代の男性は、「満州事変があり一五年戦争になっていったが、そのときも中国軍が鉄道を爆破したからだといって戦争を始めた。戦時中は子どもだったから難しいことはわからないが、今の空気がそのころに非常に似ている。とくにマスコミ。『朝日』も『毎日』も大本営発表ばかりして、国民にはまったく真実を伝えず、それ行けどんどんで国民を戦争へと動員していった。今のイスラム国報道を見ているとそっくりだ」と話した。


 当時は家族とともに満州に渡り、地元の小学校へ通っていた。「戦争が始まるときに、“ソ連兵が越境してきて住民を虐殺するから追いかけていく(日本軍がソ連軍とたたかいにいく)のだ”と新聞に写真まで出ていた。しかし通っていた学校の校長先生が修身の時間に“あれは関東軍が仕組んだものだ”とはっきりいっていたのを覚えている。今になって考えてみると、勇気のある人だったと思う」と思い起こしていた。

 盧溝橋事件契機に「邦人保護」唱えた政府

 1931(昭和6)年、満州事変を引き起こして中国への侵略戦争が始まり、1937(昭和12)年には日中全面戦争へと拡大した。これを決定的にしたのが盧溝橋事件に関する近衛文麿首相による1937年8月15日の「暴支膺懲」の声明だった。


 7月7日に起こった盧溝橋事件は、日本軍が北京郊外で夜間演習をしていたとき、一人の兵隊が行方不明になったため夜間捜索していると銃声がしたというものだった。続いて、日本が抱えていた中国人保安隊が反乱を起こし、日本人居留民260人を殺害する事件(通州事件)が起こる。


 近衛文麿首相は、通州における事件を「神人ともに許せざる残虐事件」といい、「帝国は永遠の平和を祈念し、日中両国の親善・提携に尽くしてきた」「中国側が帝国を軽侮し不法・暴戻に至り、中国全土の日本人居留民の生命財産を脅かすに及んでは、帝国としてはもはや隠忍の限度に達し、支那軍の暴戻を膺懲し、南京政府の反省を促すため、断固たる措置をとらざるを得ない」といって、「国民政府を対手(あいて)とせず」とする声明を発表し、全面戦争へと突き進んでいった。


 こうしたなかで大新聞は大本営発表に終始し、国民には本当のことが知らされなかった。『朝日新聞』は政府に先駆けて「暴支膺懲」の論調を張り、「陸戦隊宮崎一等水兵(盧溝橋事件のさい行方不明とされた兵士)は規定の門限たる7月25日午前6時15分までには遂に姿を見せず、いよいよ支那人に拉致されたこと確実と見られるに至った」という記事を載せたり、「恨み深し! 通州暴虐の全貌」という天津からの特派員電で「天津にいた支那人の保安隊が突如鬼畜と化し、日本家屋は一つのこらず滅茶苦茶に荒らされて無惨な死体が雨に当たり散乱し、身体の各所を青龍刀で抉られ可憐な子ども、幼児迄も多数純真な生命を奪われている」(ともに『東京朝日』)という記事を載せている。また「邦人大量虐殺の陰謀」という記事で、3000人の支那兵が天津の邦人1万5000人を虐殺するという「恐るべき計画」を報じるなどして扇動していった。戦後、これらはでっちあげであることが明らかになっている。


 日本帝国が「戦争不拡大の方針」のもとに「隠忍に隠忍を重ね」たうえで、「平和のため」「邦人の生命財産を守るため」といって開始した戦争で、満州だけでも四六万人を超える日本軍兵士が犠牲となった。そして敗戦がはっきりするや、関東軍の上層部は邦人を守るどころかいち早く逃げ出し、取り残された24万人の民間人、6万人の兵士は極寒のなか凄惨極まる避難を強いられ、子どもたち、女性、年寄りなど、体力のない者から犠牲になっていった。太平洋戦争全体では320万人を超える国民が犠牲になったのである。


 肉親や友人を亡くしながら引き揚げてきた経験を持つ男性は、「安倍は戦後最低の政府だ。私たち戦争体験世代の者が戦後苦労しながら、戦争に反対して積み上げてきたものをすべて壊そうとしている。この人質事件を利用してアメリカの要求通り日本を戦争に巻き込もうという話だ。しかし今回は今までとは違う。対応次第では、日本本土が自爆テロでやられかねない。原発が二カ所でも狙われれば日本は壊滅する。この危機的な状況は安倍がつくったものだ。どこが邦人保護なのか」と憤りを語った。

 法整備進めた上で戦争体制を一気に発動

 政府は中国で戦線を拡大しながら、満州事変、支那事変は戦争ではないといい続けていた。多くの国民が戦争を実感したのは、1945(昭和20)年3月の東京大空襲に始まる米軍による本土空襲だった。


 下関市内に住む84歳の女性は、「私は昭和6年生まれで、物心がつく10歳のとき(昭和16年)に真珠湾攻撃があり、日米戦争が始まったが、そのころは戦争が起こっているという実感がなかった。満州事変、支那事変があり、近所から出征兵士が出たり、千人針をした記憶はあるが、それが戦争に結びつくと思わなかった」と話す。


 昭和16年頃から物が次第になくなっていき、食料も配給になり、子どもながら順番をとる列に並び、イワシの缶詰をもらって帰ったりしていたという。砂糖がとくに不足し、配給では手に入らなかった。コメも不足し、いつもおかゆだった。女学校に入ると、学徒動員で幡生の工機部に行くことになり、美術部だったため塗装部門に回され、日の丸のはちまきを締めて飛行機の燃料タンクに色を塗る毎日だった。


 「後から考えて、あれは特攻隊の人たちが乗る飛行機のものだったのではないかと思う」と話す。昭和20年3月に東京大空襲があり、東京に嫁いだ姉が焼け出され、焼け跡に立て札を立てて疎開して下関に帰ってきたとき、初めて「本当に戦争なんだ。大変なことになっているんだと思った」という。


 80代の男性も、「小さい頃に支那事変があり、真珠湾攻撃の前も戦争をしていたはずで、新聞やラジオでは“勝った勝った”と報道していたが、戦争の実感はあまりなかった」と話す。中学校に入って戦争が激しくなり、その頃には軍国教育のもとで、友人たちも次次に予科練に志願していった。自身も陸軍幼年学校、士官学校に入ろうとしたが身長が足りず、学徒動員で大阪の工場に行き飛行機の部品をつくる作業に従事。作業中にけがをして、療養のために帰省した長崎で原爆にあった。「その頃になると戦争一色で、戦争がいいとか悪いとかを考えることもなく、毎日仕事と家を往復するだけだった」といった。


 日中全面戦争の開始とともに近衛内閣は、国内では国民精神総動員運動(1937年)を始めた。「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」などのスローガンの下に、節約や貯蓄の奨励、勤労奉仕、ぜいたく廃止などが叫ばれた。翌38年には国家総動員法、39年には国民徴用令が公布され、1940年には全政党が解散し大政翼賛会が発足する。この年、紀元2600年を盛大に祝い、「日本は神の国だ」と印象づけたことも、子どもたちの記憶のなかに鮮明に残っている。


 農村部に住む80代の男性は、「家にある鍋や釜、寺の鐘まで鉄が使われているものはみな供出になった。地区の集会なども禁止され、会合をするときには警察が後ろに控えて、なにか不都合な発言があると、制止して解散させていたことを子どもながらに覚えている。近所でも、共産党とは関係もない人が憲兵に引っ張られていき、帰って来なかった。安倍が秘密保護法や集団的自衛権などをすでに決めているが、いざ有事となると、一気に発動してあっという間に戦争反対などいえなくなる。今が正念場だ」とその経験と重ねて語った。


 11歳で終戦を迎えたという女性は、「前の戦争のときも、上の人たちが勝手にいろいろ決め、気づいたら機雷でやられた首のない死体が流れてきたり、頭の上をアメリカの飛行機が飛ぶようになっていた。家でもよく“壁に耳あり障子に目あり”といわれ、食卓を囲んで家族で話をしているときでも、“あっ”といって黙ることがよくあった。思ったことを自由にいえない雰囲気だったことを覚えている。毎晩眠たいけれど、大人は子どもを死なせたくないと、防空壕に行かせ、暗く臭い穴の中で一晩を過ごしていた。新聞やラジオは、日本軍が相手の船を五隻沈めたら10隻というし、日本軍の船が5隻沈められたら2隻という調子で、国民には一つも本当のことが伝わらなかった」と話した。


 18歳の兄は、兄弟が多く満足に食べ物がないため、「同じ死ぬなら、少しでも食べ物がある軍隊に」と志願し、終戦間際に人間魚雷の部隊に組み込まれて、宇品へ移動になったところで終戦を迎えた。「兄も好きで志願したわけではなかった。あと3日終戦が遅ければ兄も死んでいたが、それも戦争が終わってわかったことだった。下っ端の兵隊は事実を知らないまま死にに行かされていた。私たち世代はみな二度と戦争をしてはいけないと思っているが、安倍さんは関係もないのに人の国に頭を突っ込んで相手を怒らせ、日本を戦争に巻き込もうとしている」と話した。


 80代の男性は、「父が召集されて出征するのが昭和20年の終戦まぎわで、私が7歳のときだった。父と一緒に日本がシンガポールを陥落させたとか、敵国の軍艦を沈没させたとかの写真を見た記憶がある。昭和16年から17年頃は、とにかく新聞などで“日本は勝った、勝った”ばかりいっていた」と話した。その後、父がどこへ転戦したのか当時はまったくわからなかった。8月15日の敗戦後、遺骨が帰ってきたが、骨壺の中には遺骨も遺髪もなく、ただ中国の湖南省長沙の病院で戦病死したという紙切れが入っており、その後の父の消息を初めて知ったという。


 1銭5厘の赤紙一枚で国民を召集し、「おまえたちは馬より安い」(当時馬は800円)といって戦場で虫けらのように人人の命を扱い、戦地だけでも250万人もの国民を殺したのがかつての大戦だった。こうしたかつての経験とあわせて、「国民の生命・財産を守るため」というのが大嘘であることが重ねられ、「仕方がないと黙っていたらまた戦争になる」「今度はアメリカのための戦争に引っ張り出される」と体験者は語っている。


 80代の女性は「今日本国内は働く場がないし、あっても長時間労働で大変なことになっている。工場もどんどん外国に出て行く。食料も世界中から買い付けてくる。戦時中も同じで、国内では物資が足りず、みんな生活に困っているなかで、満州に行ったり、インドネシアやフィリピンや南方の島に出て行くことがもてはやされた。そして満州でも最後まで残った人たちは悲惨な目にあった。戦争体験のない安倍さんや政治家が、戦前と同じ方向に突っ走っていることに腹が立ってやれない」と話した。

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