いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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『地球を脅かす化学物質』 著・木村-黒田純子

 今から50~60年前、春になるとハチや蝶や無数の名も知らない虫たちが飛び交い、這い回り、それを狙う鳥やカエルたちもザワザワし、池はオタマジャクシが水面を覆い尽くしていたが、今ではその種類や数は極端に減ったといわれる。

 

 また、この50年間でこれまでに見られなかった子どもの健康問題があらわれてきた。アレルギー、肥満や糖尿病など代謝・内分泌系の異常、脳の発達に何らかの障害がある子どもが急増している。文科省の調査によると、自閉症や注意欠陥・多動性障害(ADHD)、学習障害などの発達障害の児童が、この10年間で2倍になったという。

 

 この50年間で日本経済は急成長し、食料も居住環境も豊かで近代的になったはずが、逆に子どもの健康が損なわれているのはなぜか。この20年余り東京都神経科学研究所などの公的研究機関におり、PCBや農薬など有害な環境化学物質が脳の発達に及ぼす影響について研究を続けてきた著者が、この問題を解明するために本書を書いた。

 

 著者は本書のなかで、戦後、米軍によって持ち込まれたDDTやBHCなど有機塩素系農薬(その後毒性が明らかになり、1980年に製造中止)、ハチの大量死をもたらしたネオニコチノイド系農薬、腸内細菌叢のバランスを崩してアレルギーを引き起こす抗生剤から原発の放射線被曝の影響まで、多岐にわたる問題にふれているが、ここでは自閉症など発達障害の急増として子どもに影響を与えている農薬の問題にしぼって見てみたい。

 

1000億の細胞繋ぐシナプス 胎児・小児期に発達

 

 脳神経科学の発達で、脳の働きの興味深いことがたくさんわかってきた。

 

 人間の脳の特徴は大脳が大きいことで、生命維持にかかわる脳幹をとり囲み、大脳の表面積(神経細胞の数)を増やすために幾重にもしわがある【図・ヒトの脳の構造】。人間の行動の基本はこの大脳が主に担っており、なにかを感じたり、見たり、聞いたり、考えたりと、すべての意識や行動にかかわっている。

 

 脳のカナメである神経細胞は、情報伝達の入力を担う樹状突起と、出力を担う軸索の2種類の突起を持っているのが特徴だ。そして軸索の終末は次の神経細胞とシナプスで結合し、神経回路を形成する【図・神経細胞とシナプス】。一人の脳にはおよそ1000億個もの神経細胞が約100兆個ものシナプスで結合し、神経回路をつくり次々と情報を伝達している。

 

 大脳の大脳皮質は領域によって役割が決まっているが、視覚野、聴覚野といってもその領域だけで見たり聞いたりするのではなく、その領域と他の大脳皮質領域や、情動を担う扁桃体、さまざまな調節機能を担う小脳などとの間にシナプス結合を介した神経回路がつくられ、さらにその神経回路が他の神経回路ともつながって高次の神経回路網がつくられており、この全体が働くことで初めて人間は、見たり聞いたり意識したりする。

 

 つまり、脳の働きの本体はこの神経回路網なのだ。そこで神経細胞はなくてはならないが、神経回路をつなぐシナプスこそが「脳の機能」の本当のカナメともいえる。

 

 ところで人間の脳の発達は受精後初期から始まり、出産時には大脳のしわはほぼ成人と同じように発達して生まれる。一方、生まれた時点で大脳の神経回路はほとんどできていない。生後、脳内に入る栄養やホルモンなどの働き、そして外界からの刺激(親のスキンシップや話しかけ、その他)を受けてシナプスと神経回路ができていく。シナプスは大人になってからも形成されるので、たとえ老人になっても新しいことを記憶し、新しい能力を身につけることはできるが、大部分の神経回路網は胎児期、小児期にできるので、この発達期が非常に重要となる。

 

 問題はこの発達期に、シナプスや神経回路の形成を撹乱する有害な残留農薬などが、胎児期には母胎を通じて、生後は母乳や食べ物を通じて入ってくることだ。自閉症など発達障害の原因については、戦後、遺伝要因が大きいといわれてきた。しかし最近の研究で、遺伝要因は約37%、残りの63%は環境要因(食べ物など)であることがわかってきた。遺伝子を変えることは難しいが、環境を変えることは可能だ。

 

各国でネオニコ系使用規制 世界一緩い日本

 

 では具体的に、どのように残留農薬が影響しているのか?

 

 農薬のうち、有機リン系殺虫剤やネオニコチノイド系殺虫剤など、現在使われている殺虫剤は昆虫の脳神経系を攻撃するものがほとんどだという。それも神経細胞同士をつなぐとき、シナプスの先端からアセチルコリンという神経伝達物質が出るが、有機リン系やネオニコ系の殺虫剤はこのアセチルコリンを標的にしている。

 

 驚くことに、神経伝達物質など神経系にかかわる分子群は、下等動物から昆虫、人間を含む高等動物まで、同じか似た分子群で構成されている。アセチルコリンも単細胞生物、細菌類、植物、無脊椎動物、脊椎動物、哺乳類、人間までほとんどの生命に共通の重要な生理活性物質だ。したがって害虫だけを殺すことは不可能で、人間を含む幅広い生物相に害をもたらすことは必至だ。

 

 しかもネオニコチノイド系や一部の有機リン系など水に溶けやすい浸透性のものが増えており、土壌に撒かれた殺虫剤は根から吸収され、葉、茎、花、蜜、果実と農作物全体に浸透し、残留した殺虫剤は洗い落とせない。

 

 胎児、小児期という脳の発達期にこうした残留農薬の曝露を受けると、脳の発達に異常が起き、IQや学習記憶の低下、発達障害になりやすいという疫学論文が現在、多数出ている。アルツハイマー病や統合失調症の関与も疑われている。使用量が急増しているネオニコ系農薬の被害では、その他に心疾患や記憶障害などを訴える患者も多数出ている。

 

 見逃せないのは、こうした結果が出ているにもかかわらず、日本政府の農薬規制基準が欧米に比べてきわめて緩いことだ。有機リン系殺虫剤は、EUでは登録とり消し、米国でも全体の5割まで減らしたが、日本ではいまだに使用量第1位だ。ネオニコ系農薬についても、EUでは一昨年に永続的な屋外使用禁止を決め、米国やカナダでも使用規制が始まっているが、日本ではいまだに規制はない。

 

 著者は最後に、日本でも市民が声をあげ、国を動かして、有害な農薬や遺伝子組み換え作物などの法的規制強化・禁止を実行させること、有機・無農薬農業の推進、とくに学校給食に有機食材を増やす運動を推進することを提起している。経済優先、利潤追求第一の工業型農業が、自然とともに人間の体も、次代の担い手である子どもたちをも蝕んでいることは明らかだ。

 

 人間が自然とともに健康に幸せに生きていく「別の道」を選択すべきときに来ているという訴えには、共感する人が多いだろう。  
        

 (海鳴社発行、B6判・206ページ、定価1500円+税

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