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私の読んだみすゞの詩 あたたかく強い眼差し 実人生の生き方を投影  下関・教員 有澤 祐紀子       

 わたしは一八歳で結婚して三人の子どもを生み育て、その後文学を学ぶために高校生といっしょに大学を受験しました。そして、文学のおもしろさを子どもたちに伝えたい、子どもたちのために役だっていきたいと決意して教員免許を取得し、今年はじめて下関の中学校の教壇に立ったところです。
 一七年まえの次女が生まれた日、 金子みすゞの全集を手にしました。それまでいろんな文学や詩を読んでいましたが、これまでにない作品で、すごい詩人がいるんだなと驚きました。わたしがいちばん好きなのは「露」という詩です。
 
  露
誰にもいわずにおきましょう。

朝のお庭のすみっこで、
花がほろりと泣いたこと。

もしも噂がひろがって
蜂のお耳へはいったら、

わるいことでもしたように、
蜜をかえしに行くでしょう。

 みすゞそのもののような詩です。
 みすゞがこの詩を発表したのは、世話になった養父・上山松蔵のすすめで、自分ががまんすればみんなが幸せになれると、気のすすまぬ結婚をして三カ月後。小さい庭のすみっこで泣いている花はみすゞ自身です。蜂が蜜をとっていくのはあたりまえの行為だけど、その行為で傷つくものがいる。それを全部知ったうえで、しかしあたりまえのことをしている蜂を思いやっている。胸をうつ、せつない詩です。
 このようにみすゞの詩は、頭のなかでつくりあげたものではなく、実人生で貫いた自己犠牲的な生き方が、作品に自然と投影されたものです。弱いもの、小さいものへのあたたかいまなざしが偽善でなく伝わってくるし、ここにほかの文学作品にない強さがあります。それはみすゞ自身の生い立ちが関係しているかもしれません。
 父親が小さいときに中国で殺され、自分は「もらい子では」と作品にも何度か登場するように、小さいころからのさみしさが作品全体のなかに投影されており、しかもそれに負けずにたえてきたことから、あたたかく、やさしいだけでない強いまなざしが生まれたのだと思います。
 だから、「土」という詩のなかで、土のなかでも人間に使われない名もない土、「打たれぬ土」「踏まれぬ土」に目をむけることができたし、そうした土にもちゃんとした役割があるのだと気づかせてくれます。
 注目したいのは三冊の詩集の巻末手記です。「できました、できました、かわいい詩集ができました」ではじまるそのなかに、詩集のできばえが「我さえも、心足らわず さみしさよ」とあり、「ああ、ついに、登り得ずして帰り来し、山の姿は 雲に消ゆ」とあります。自分の作品について自慢することをけっしてしなかった謙虚なみすゞが、ここでは、創作者としてはいまだ未完成で終わってしまったことの無念さと、それと同時に創作者としての自負、芸術にたいするつきぬ思いを、本音としてあらわしているように思われます。
 教壇に立って思うことは、先生も生徒も「詩は苦手」「むつかしい」という人が多く、とりあげることも多くありません。しかしみすゞの詩は、だれが読んでもスッと胸にしみてくる作品が多く、普通気づかないことにハッと気づかせてくれます。世の中の悪環境に負け、それに妥協して生きてきて、つい忘れかけていた純粋な気持ち、人間としてのやさしさを思い出させてくれます。
 いまの中学生は「荒れている」「むずかしい」とよくいわれますが、昔もいまも子どもたちの本質はかわっていないし、いいところもたくさんもっています。教師はなんのためにいるのか。それは一人一人の子どもが幸せになれるように、そして自分も他人もたいせつにできる大人になれるよう導くために存在すると思っています。
 教師としてのこの初心を忘れず、わたしはみすゞの詩を生徒たちに見てもらい、自分のなかにあるやさしさに気づいてもらいたいと思っています。これからもみすゞの詩をどんどん紹介していきたいです。

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