
著者:磯永 秀雄
編集:長周新聞社
B6判 368頁
価格:1,700円
1、いまわしい戦争の経験/2,残された命を詩人にかける/絶望の克服とヒューマニズ ム/4,人々の役に立つ詩を/5,極限の場で鑑賞に耐える詩/6,挫折ムードと高度成長のまやかしの中で/(ほか 参考・礒永秀雄と長周新聞)
B6判、368頁。
(本書より)
八月の審判
夏の夜空に花火があがる。大小のスポンサーの名が花火の名とともに賑々しく拡声器で伝えられ、菊が牡丹が柳が龍がヒュルヒュルと笛までついて打ち上げられ、中空で大きな音を立てて花を開く。轟音は水に拡がり山をゆるがす。浴衣がけの、ポロシャツの、海水着のままの人の波に浜辺は埋めつくされ、海に面した家々の二階や縁先では客を迎えて景気よくビールの栓が抜かれる。十五年目の原爆記念日の夜である。妻は子供達と花火の写生をしている。僕は打ち上げられた花火の煙が、きのこのように、くらげのように、にぎりこぶしのように、あるいは幽霊のように、東から西へ、拡がっては溶けてゆく姿を眺めている。世の中は僕の小学生の頃のような、いやそれ以上の平和な姿に帰ったようだけれど、僕の心はいつまでたっても慰まない。花火の音を聞けば銃砲声を思い、その煙を見れば戦場を思うという、この古めかしい不幸な気分はいったい何時の間に培われてしまったのだろう。人並に花火の美しささえ楽しめないというふさぎの虫はいつから僕に巣喰いはじめたのだろう。こんな陰気な性格ではなかったのに、いつもこんなでもないのに。僕は夏が好きだ。ギラギラ照りつける太陽が好きだ。汗ばんだ人々の顔が好きだ。家々の壁板が柱が天井がまだ生きている木の香りを漂わせる夏が好きだ。だのにこんな暗い気持が起りがちなのもきまって夏だ。八月が僕をいら立たせるのだ。八月が審判にやってくる。
僕は昭和十八年の冬学徒臨時徴集で南の島に追いやられた。たくさんの学友たちが死んだ。海は一瞬にして三千人の兵を船もろとも呑んだ。強制使役が死ななくてすむ人々を次々と殺した。三百人が三十人になることはそう手間のかかることではなかった。「死にとうナカ」「茶椀で米のメシが喰いたい」「帰りたい、帰りたい、日本へ帰りたい」そういいながらジャングルの中で兵士たちは死んだ。沖縄出身の兵士は故郷の悲報にあるいは発狂しあるいは逃亡し、見つけられては銃殺された。命令を受けた戦友の手で……。連日の無差別爆撃と銃撃の下でついに斬込部隊が編成され、トカゲの鳴き声を空っぽの腹の底から出さなければならなかった。戦友の遺骸を焼くのも片腕から片肱に、はては手首から指一本にかわっていった。煙が上がるときまって翌朝爆撃を受けるならわしだったから、火を焚くのは夕もやから朝もやにかけてつまりもやに擬装されたあがり方でなければならなかった。野戦病院の戦友の遺骸を受取りに行けば軍医はメスで無造作に友の手首からさきを切り取り、セロファンにつつんで、それを彼の飯ごうにぶちこんで黙って渡してくれた。まだある。まだまだある。数えきれぬほどいまわしい思い出は残る。
しかしとにかく僕は帰って来た。ニューギニアの果てから。生き残って。かすり傷一つしないで。元気に、少くとも元気に、もう殺されることのないことを信じて、生き長らえて帰って来た。
僕の眼を射たものはすばらしい日本の野山の美しさだった。すがすがしい緑だった。さわやかな水の色だった。帰っていく家もない僕はこの野山の美しさのある限り残されたいのちを詩人に賭けようと思った。奪われた幾多の夢を取り戻すために。永遠に青春を生きるために。僕自身何よりも先ず人間であり日本人であるあかしをするために。
名ばかりの故郷に引揚げた両親の許に帰って僕は知った。日本に残っていた学友たちは僕を死んだものと思い「礒永の死を無駄にするな」と誓い合ってくれていたという。「俺達はもう騙されぬ。この投げ与えられた自由はたくさんだ。自由は俺達の手でかちとるんだ」友人は復員したての僕をそういって手紙で励ましてくれた。その友ももういない。しかし僕は生き残っている。臆面もなく生き残っている。亡くなった友人達の言葉に取り巻かれ、八月に鞭打たれながら。ヒロシマの光を見たという妻とともに。元気な二人の男の子とともに。母とともに。
《磯永秀雄略歴》
1921年 1月17日 朝鮮仁川で洋服屋の息子として生まれる。京城中学から姫路高校をへて東京帝国大学文学部美術科中退
1943年 学徒臨時徴集でニューギニアの手前のハルマヘラ島へ
1946年 6月に復員、山口県光市を拠点に活動を開始
1950年 正統詩を標榜して雑誌『駱駝』を創刊
1951年 『現代山口県詩選』を編集、駱駝詩社より発行。第1回山口県芸術文化振興奨励賞受賞
1952年 詩「黒い八月の旗風にのせて」「踏み荒らされた秋の野で」「別れ道で」
1955年 長周新聞創刊の年の6月に詩論「現代詩の根本問題について」と「殺しにゆけ」、8月に詩「十年目の秋に」掲載
1956年 長周新聞に「正統詩覚え書」連載
1957年 詩「さて」
1960年 詩「ゲンシュク」「輪姦」、エッセイ「八月の審判」「5日間の手帳」
1961年 福田正義らと文芸誌『扉』創刊。詩「春雷」「キバの桜の咲く頃」「右手のしたことを」他
1962年 詩「虎」
1964年 元旦に詩「こがらしの中で」、童話集『四角い窓とまるい窓』発行
1966年 5月に評論「燃焼する生命体」、9月に詩「ただいま臨終」ほか「白蟻を飼うな」「招待状」などの詩を連続して発表
1967年 詩「疲れた君は休みなさい」「まるい背中へ」、論評「現代詩の盲点」
1968年 詩「笛の歌」「門」「野火の成功を称える」
1971年 詩「核をかついで去れ」
1972年 山口県文学者訪中団の一員として出発にあたり詩「新しい海へ」
1973年 詩「一かつぎの水」「上海の夜明けに」「延安」などをまとめて詩集『燃える海』(長周新聞社)を発行
1974年 長周新聞創刊20周年で詩「新しい火の山に想う」
1976年 光市中央病院で急逝、55年の生涯を閉じる