いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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日本人全員に英語4技能は必要か ~大学入試を食いものにしながら肥え太る教育産業~ 国際教育総合文化研究所・寺島隆吉

 

 大学入試センターによる入試の「外注」「民営化」は、様々な議論を呼んできましたが、萩生田文科相の「身の丈」発言で、あっけなく延期となりました。その意味では萩生田光一氏に深く感謝しなければなりません。

 というのは、この英語民間試験については、私は昨年の季刊誌『IB』(2018夏季特集号)に載ったインタビューで、その問題点を指摘し、その後もブログ「百々峰だより」を通じて繰り返し、その中止・廃止を訴えてきたからです。

 しかし、大手メディアは一向にこの問題を取りあげようとはしませんでした。

 その後、2019年6月に、京都工芸繊維大学の羽藤由美教授らが中心になって、この英語民間試験の延期を求める国会請願署名を始めた時も(1週間という短期間で全国から8100筆の署名を集めた)、大手メディアは、この問題を真剣に取りあげませんでした。

 全国高校校長協会も7月に延期をも含めた要望書を提出したのですが、文科省は全く聞く耳を持ちませんでしたし、大手メディアもあまり注目しませんでした。

 それどころか、これに対抗して日本私立中学高等学校連合会(中高連)が「延期をせずに円滑な実施を目指すべきだ」とする要望書を提出したことに大きく紙面を割く始末でした。

 その後の8月に、中日新聞(8月4日号)のインタビュー記事で、私は再び英語民間試験の中止・延期を訴えたのですが、この記事は「岐阜版」に掲載されただけで、中日新聞の全国版には載せてもらえませんでした。新聞もテレビも、それほどの認識しかなかったのです。

 ところが萩生田文科大臣が「身の丈」発言をしただけで、英語民間試験は延期になったのです。中止には至らなかったとはいえ、延期になっただけでも受験生にとっては大きな朗報となりました。

 授業をつぶしてまでGTECの受験対策に狂奔してきた私立学校中高連にとっては大きな痛手になったかも知れませんが、私の調べた限りでは、生徒の多くはホッと胸をなでおろしたそうです。管理職から「授業をGTECの受験対策に集中しろ」と言われてきた英語教師の思いも、私の聞く限り、同じでした。

 中高連の会長は記者会見で、「しっかり学習してきた生徒の思いはどうなるのか。延期は子ども中心の考え方ではない」と述べましたが、彼らの頭にあったのは生徒の気持ちではなく、金をかけて事前にGTECを生徒に強制受験させてきたことにたいする無念感があっただけではないでしょうか。

 このように、文科省も大手メディアも、これまでは、英語民間試験の中止・延期にあまり関心を払ってきませんでした。それどころか文科省は強行突破を考えてきました。

 ところが萩生田文科大臣の思わず語った本音で事態は一転したのですから、萩生田氏に最高の功労賞を差し上げなければならないでしょう。

 

 

 ところで、この「身の丈」発言をめぐって、私の主宰する研究所の研究員から次のようなメールが届きました。

 「それにしても、身の丈発言からの外部検定試験導入延期。一気に物事が進みましたね。
 発表時の熱気が収まって少し冷静に考えてみると、あの発言は、延期をするためにわざとしたのではないか? という気がしてきました。

 着々と試験の準備を進めていた英検に比べて、ベネッセのGTECは明らかに出遅れていました。英検はいろんな地域を会場にするのは歴史もあり、慣れていたと思います。

 一方のベネッセは、下手したら、高校を会場にして、高校の先生方に監督を頼むみたいな、ありえないことを考えていたフシがあります。ベネッセが『来年度の実施は無理』と政権に泣きついたのではないでしょうか?それを受けての『身の丈発言』だったのではないでしょうか?」

 

 これを読んで、「なるほど、そういう見方もあるのか」と感心しましたが、しかし私には「あの発言は、延期をするためにわざとした」「ベネッセが『来年度の実施は無理』と政権に泣きついた」からだとは思えませんでした。

 というのは、ベネッセが「来年度の実施は無理」と思ったのであれば、TOEICのように撤退すればよいだけの話で、わざわざ「政権に泣きついて」あのような発言をしてもらう必要はなかったと思うからです。

 私は、これまでの萩生田氏による言行録を見ていると、あのような「身の丈」発言をするのも当然ありうることだと思ったのです。

 たとえば早稲田実業学校高等部の在学時に、卒業パーティーのパーティー券を売り歩いて一度目の停学、高田馬場で朝鮮高校の生徒と大乱闘になり二度目の停学を受けていて、しかも、この二度の停学の話は萩生田氏の自慢話となっているそうですから、あの発言も氏の本音が思わず口から出てきたのではないでしょうか。

 まして今の安倍政権は、民衆が貧困に喘いでいても、それを全く気にするふうもなく消費税を10%に値上げするのですから、高校生が民間企業による入試でどんな不利益をこうむろうとも、それを痛みとして受け止める感覚が麻痺してしまっていたのではないかと思うのです。

 その典型例が、英語民間試験の延期・中止を求めて高校生が短期間で4万人もの署名を集めて文科省に提出したのに、国会文教科学委員会で「その署名を読んだのか」と質問されても、「忙しくて読んでいない」という、素っ気ない答弁でした。氏は、この試験によって最も被害をこうむる高校生の生の声を聞く耳を持たなかったのです。

 しかし、これは萩生田文科相の個人的資質の問題だけではなく、安倍内閣そのものが民衆の痛みに対する感覚が麻痺しているので、それが萩生田氏にも伝染して「身の丈発言」になったとも考えられるのです。それは麻生太郎副総理兼財務相の次のような放言によく表れています。

 「90になって老後が心配とか、わけのわからないことを言っている人がテレビに出ていたけど、いつまで生きているつもりだよと思いながら見ていた」

 これは、2016年6月17日に北海道小樽市で開かれた自民党の集会での放言なのですが、こういう民衆蔑視の姿勢・雰囲気が官邸に満ちていたのではないかと推察しています。

 ですから、「あの発言は民間試験を延期させるためにわざとしたのではないか」という推論は、私には全く根拠がないように思えます。

 

 

 しかし先述のメールを私のところに送ってきた研究員は、自分の推論の根拠を次のように述べています。

 「着々と試験の準備を進めていた英検に比べて、ベネッセのGTECは明らかに出遅れていました。英検はいろんな地域を会場にするのは歴史もあり、慣れていたと思います。

 一方のベネッセは、下手したら、高校を会場にして、高校の先生方に監督を頼むみたいな、ありえないことを考えていたフシがあります。ベネッセが『来年度の実施は無理』と政権に泣きついたのではないでしょうか?それを受けての『身の丈発言』だったのではないでしょうか?」

 

 確かに英検は、「英検2級」「英検準1級」とかの試験を通じて、「いろんな地域を会場にするのは歴史もあり、慣れていた」ことは確かでしょう。

 上記のメールでは「着々と試験の準備を進めていた英検に比べて、ベネッセのGTECは、明らかに出遅れていた」とも書かれているのですが、しかしベネッセは文科省と太いパイプでつながっており、「出遅れ」どころか、実はGTECが一人勝ちする雰囲気すらありました。

 なぜなら、GTECは文科省が2007年から始めた全国学力・学習状況調査の採点・集計業務を長年にわたって請け負っているのですから、試験を全国でおこなうことには慣れていたとも言えるからです。

 もっと詳しく言えば、ベネッセは、文科省が小学6年と中学3年の全児童・生徒を対象に約50億円という巨額予算を投じて毎年実施する「全国学力学習状況調査」を、直近五年間、毎年落札しているのです。

 そのうえ、ベネッセは文科省と人事面でも太いパイプでつながっていました。

 たとえば、GTECをベネッセとともに共催しているCEES(一般財団法人「進学基準研究機構」)という団体がありますが、これはベネッセの東京本社内に拠点があり、理事長は元文部次官の佐藤禎一氏です。典型的な天下りです。

 また入試改革の答申を出したときの中央教育審議会(中教審)会長だったのが、元慶應義塾大学塾長・安西祐一郎氏であり、この外部試験の推進役だった人物が、今度はCEESの評議員になっていたのですから、「出遅れ」どころか、GTECが一人勝ちする雰囲気があったのも、当然でした。(法人登記によれば、2014年11月のCEES設立と同時に、「評議員」に就任した3人の筆頭に安西氏の名前があったのです。)

 民間活用を打ち出した中教審会長が、答申前に民間試験業者側にポストを得ていたとあれば、利益相反の疑念が生じてきます。だとすれば中教審の議論が民間試験導入の方向に曲げられたと考えるのが自然でしょう。

 しかも安西氏は、中教審の答申を取りまとめた後も、2015年2月~2017年2月には文科省の顧問として、また2018年6月からは参与として、業務実態に応じて日給2万6200円もしくは2万2700円の報酬をそれぞれ得ています。

 

 

 この話には、さらにオマケがあります。というのは、ベネッセは2019年8月には、大学入試共通テストに新たに導入される「記述式問題の採点業務」を、61億円で落札しているからです。つまり文科省とベネッセはいわば一心同体といってもよいくらいの密接な関係にあるのです。「出遅れ」どころではありません。

 文科省とベネッセの「一心同体」ぶりは、もうひとつの事実によっても裏付けられます。それは、大学入試を民間委託の方向に推進した下村文科相の下で、文科省参与に就いた鈴木寛氏の経歴です。鈴木氏は、15年から18年まで4期にわたって文科相補佐官を務めたあと、今はベネッセグループ福武財団の理事になっています。

 つまり鈴木寛氏は東京大学公共政策大学院教授となった現在も、ベネッセグループと深く関わっているわけです。

 

 

 こうしてみると文科省と民間教育産業(とりわけベネッセ)の癒着ぶりは歴然としています。それは試験の運営方法にも現れているように思います。前述したように、私の主宰する研究所の研究員から届いたメールには次のような一節がありました。

 「英検に比べて、ベネッセのGTECは明らかに出遅れていました。(中略)ベネッセは、下手したら、高校を会場にして、高校の先生方に監督を頼むみたいな、ありえないことを考えていたフシがあります。」

 

 このメールでは、「高校を会場にして、高校の先生方に監督を頼む」ことは「ありえないこと」と述べられているのですが、これこそベネッセが狙っていたことではないかと思うのです。

 というのは、ベネッセは前述のとおり、文科省が小学6年と中学3年の全児童・生徒を対象に約50億円という巨額予算を投じて毎年実施する「全国学力学習状況調査」を、直近5年間、毎年落札しているからです。

 これを高校にまで拡大すれば、あっという間に全国の高校における「英語民間試験のベネッセ版」が実現します。

 そして実際、英語民間試験のGTECを受験する予行演習として、全国のあちこちの高校で、生徒から受験料を徴収して、GTEC受験がおこなわれています。

 たとえば、私が主宰する国際教育総合文化研究所の研究員には、公立高校だけでなく私立高校の教員もいますが、その教員が勤務する京都のある私立高校では、授業をつぶしてGTECを受験させていますし、授業そのものがGTECの過去問を解く授業に変わってしまっています。文科省の教科書は使わなくてもよいのです。

 

 

 同じことは岐阜市内の私立高校についても言えます。この学校は中高一貫校なのですが、ここでも英語民間試験に慣れておくためにという理由で、やはり授業をつぶしてGTECを受験させています。しかも、この受験には岐阜県から補助金(約半額の3000円)まで出ることになっているというのですから驚きです。

 全国高校校長会が英語民間試験の延期・中止を求めたとき、私立学校中高連の会長が記者会見で、「しっかり学習してきた生徒の思いはどうなるのか。延期は子ども中心の考え方ではない」と述べたことは、先に紹介しましたが、それには上記のような事情があったのではないでしょうか。

 この私立学校で、当日のGTEC受験を準備するためにきりきり舞いをさせられた責任者の英語教師に、「英語民間試験が中止になった反応はどうですか」と念のために尋ねたところ、「生徒も教師も顔が明るくなりました」「とりわけGTEC予行演習のために、授業を放棄してまで忙殺させられた英語教師はホッとしています」との返事でした。

 ですから、先述のとおり、中高連会長の頭にあったのは生徒の気持ちではなく、「GTEC対策を万全にやってきたのに」という管理職の無念感だけだったのではないでしょうか。

 

 

 以上は私立学校の例ですが、研究員には公立高校の英語教師もいます。愛知県のある公立の進学校でも、「英語民間試験で生徒にいきなりGTECを受けさせるわけにはいかないから」という理由で、やはり授業をつぶしてGTECを受験させたそうです。

 しかし教員のなかから「営利を目的とする外部試験を公立学校で受験させるのはおかしいのではないか」「ましてそのために教員が『ただ働き』をさせられるのは納得がいかない」という意見が出てきたので、管理職が県の教育委員会に問い合わせたそうです。すると驚いたことに、「問題ない」という返事だったというのです。

 つまりGTECは文科省を通じて各県教育委員会に通達を出して、GTECの受験を奨励しているのではないかと疑われるのです。さもなければ、どうしてGTECという民間試験を、税金を使って私立学校にまで援助することが許されるのでしょうか。どうして公立学校で、英語民間試験の予行演習と称してGTEC受験が許されるのでしょうか。

 このような事例をみてみると、ベネッセすなわちGTECは、「出遅れている」どころか、「一人勝ち」の様相を呈しているのです。全国であちこちの高校が英語民間試験の予行演習と称してGTECを受験させているのですから、本番でも全国の高校を会場にして、しかも現場の英語教員を動員しておこなえば、簡単に、ことがすみます。

 わざわざ金を払って会場を借りたり試験監督の人員を雇う必要もないのですから、こんなに美味しい話はありません。しかも文科省の通達ひとつで、これが実現できるのです。だからこそ文科省の高官を、高給を払ってベネッセの関連会社の役員にしたり顧問にしてきたのではないかと思うのです。

 

 

 ところで、すでに多くの大学では、このような英語試験のやり方は一般化しています。今まではTOEFLやTOEICは、試験会社が金を出して大学を借りて、試験監督もアルバイトを雇って実施してきました。ところが文科省が声高に「大学のグローバル化」を言い出してからは、大学が自主的に会場を提供し、大学の教員を使ってTOEFLやTOEICの試験をおこなうところが珍しくなくなっているのです。

 しかも共通教育の英語授業は、「TOEFLやTOEICの試験で高得点を取るような指導をしろ」という上からの圧力で、TOEFLやTOEICの受験対策本を統一教科書として使えという圧力も強くなりました。

 その裏には文科省の強い指導があったようです。「英語指導にどれだけの時間と精力を割いているか」の点検項目があり、それによって大学への交付金が加算されたり削減されたりする仕組みが整っているからです。

 東京大学が「英語民間試験を東大受験の要件としない」と発表したとき、文科省に呼びつけられて、その声明を撤回しましたが、その裏には、このような事情があったのではないかと推測しています。

 

 

 いずれにしても、ベネッセがTOEFLやTOEICの受験システムをGTEC受験に応用しようと考えたとしても、何の不思議もありません。というのは、安倍政権がこれまで主として推し進めてきた民営化は、まさにそのような方式、いわゆる「コンセッション方式」だったからです。

 安倍政権は「アベノミクス」と称して新自由主義に基づく民営化を強力に推し進めてきたわけですが、そのときに依拠したのが、PPP・PFIという方式、とりわけ「コンセッション方式」でした。すなわち「公設民営」という方式です。

 このように、PPPやPFIといった横文字や「コンセッション」というカタカナ語を使うときは、政府がその実態を国民に知らせたくないときです。

 その証拠に、PPPと言われても国民には何のことか分かりません。PPPとは”Public Private Partnership”ですから、「公民連携」と言えばすむものを、わざわざPPPと言うからには、その実態が何かやましいところがあるからに違いありません。

 しかも、このPPPのひとつの形態がPFI(Private Finance Initiative)であり、強いて訳せば「民間資金の主導による事業」ということになるわけですが、具体的には「公設民営」ということになります。「施設」は公営のままで「運営」は民営ということです。

 たとえば水道事業のすべてを民間企業に「丸ごと」譲り渡す民営化ではなく、経営・営業権だけを民間に任すわけです。これがコンセッション方式と言われるものです。施設は国や自治体がもったままで営業だけを民間に「認める(concede)」ので、これをコンセッション(concession)方式と呼んだわけです。

 

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 これだけの説明だけでは、なぜコンセッション方式が問題なのか分からないかも知れません。それを水道事業で検証してみます。

 いま日本で先行しているのは水道事業の民営化だからです。特に最近は浜松市など一部の自治体で水道事業のコンセッション方式による民営化がおこなわれたりすることで、これが知られるようになりました。

 しかし「民間活力の活用」と言えば聴こえは良いのですが、当然良いことばかりではありません。コンセッション方式は経営だけは民間がもつわけですから、まず最初に手がけることは水道料金の値上げです。

 水道管が日常的に手入れされていなければ、とうぜん腐食して水質が悪くなりますが、そのような維持管理の仕事は費用がかかりますから、なるべく手抜きします。

 公営で、日頃から維持管理をおこなっていれば水質が悪くなることはありませんが、民営では、先述のとおり、なるべく手抜きをします。

 その典型例がアメリカです。ミシガン州のフリントで、2014年に水道水の鉛汚染が大きな問題になりました。このフリントはマイケル・ムーア監督の映画 『Roger & Me』で有名になった町ですがこの住民は水が飲めなくなっただけでなく、多くの病人が出ました。

 まして民営の場合、地震などで水道管が破裂しても、その修理は「私の仕事ではありません」ということで、なかなか手をつけようとはしません。こうして市民の日常生活に大きな影響を及ぼします。そして儲けが出なくなればさっさと撤退します。

 しかし公営であれば、先述のとおり、一刻も早く復旧しなくては、ということで全力を尽くしますから、日常生活にそれほど打撃を与えません。

 他方、民営化した場合「水道料金がいかに高騰化するか」は、海外の例を見ればよく分かります。堤未果『日本が売られる』(幻冬舎2018、17頁)は、その高騰ぶりを次のように説明しています。

 「世界の事例を見てみると、民営化後の水道料金は、ボリビアが2年で35%、南アフリカが4年で140%、オーストラリアが4年で200%、フランスは24年で265%、イギリスは25年で300%上昇している。

 高騰した水道料金が払えずに、南アフリカでは1000万人が、イギリスでは数百万人が水道を止められ、フィリピンでは水企業群(仏スエズ社、米ベクテル社、英ユナイテッド・ユーティリティーズ社、三菱商事)によって、水道代が払えない人に市民が水を分けることも禁じられた。」

 

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 では水道事業の維持管理についてはどうでしょうか。民営化してアメリカ資本のベクテル社に運営を委託したボリビアの例が、最も分かりやすいでしょう。

 それについても堤未果は、次のように説明しています。

 「採算の取れない貧困地区の水道管工事は一切行われず、月収の4分の1にもなる水道料金を払えない住民が井戸を掘ると、『水源が同じだから勝手にとるな』と、ベクテル社が井戸使用料を請求してくる。

 困った住民が水を求めて公園に行くと、先回りしたベクテル社が水飲み場の蛇口を使用禁止にし、最終手段で彼らがバケツに雨水を溜めると、今度は一杯ごとに数㌣(数円)徴収するという徹底ぶりだった。」(『日本が売られる』17頁)

 

 このような仕打ちに耐えきれず、ボリビアの民衆が怒りを募らせて巨大な民衆運動を展開し、公営化をかちとりました。この運動はさらに発展して、結局は「初の先住民大統領エボ・モラレス」を誕生させることにつながったのです。

 ところが先日(2019年11月12日)モラレス大統領は、白人特権階級を中心とした勢力が起こしたクーデターで、メキシコに亡命することになりました。先住民初の大統領として高成長と格差是正を実現したモラレスは、ベネズエラのチャベス大統領と同じように「独裁者」と呼ばれ、追われるように国を出ることになりました。

 モラレス大統領によって甘い汁を吸えなくなった外国資本(そして多国籍大企業によって支えられているアメリカ政府)が、このクーデターを裏で支援していたことは、ほぼ明らかです。
*Bolivia’s coup: Morales toppled not due to his failures, but due to his success
(ボリビアのクーデター政権転覆、それはモラレスの失政ではなく善政のためだ)
https://www.rt.com/op-ed/473560-bolivia-coup-morales-resources/

 

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 日本でも、水道事業を民営化しやすくする改正水道法が、2018年12月6日の衆院本会議で採決され、可決・成立しました。こうして安倍政権の言う「世界一、企業が活躍できる場」が外国資本に提供されることになったわけですが、前例を見れば分かるとおり、その未来は決して明るいものではありません。

 なぜなら、2013年4月19日に麻生副総理(当時)は、ワシントンで講演したとき、水道だけでなく「学校の公設民営化」についても発言しているからです。

 「日本では自治省以外ではこの水道を扱うことはできません。しかし水道の料金を回収する99・99%というようなシステムを持っている国は、日本以外にありません。この水道は全て国営、もしくは市営、町営ですが、こういったものを全て民営化します。また、いわゆる学校を造って運営は民営化する、すなわち公設民営、そういったものもひとつの考え方に、アイデアとして上がってきつつあります。」(CSIS 「米戦略国際問題研究所」における記者会見)

 

 ご覧のとおり、麻生氏は既に6年前、アメリカで、水道だけではなく教育も民営化すると話しているのです。国民に一言の相談もなく、まるで自分の持ち物であるかのように、教育を外国資本にも開放する(売り渡す)と言っているのです。

 こうして、「あらゆる公共サービスを民営化せよ」という日本政府の政策は、今や水道だけでなく公教育もターゲットになっているわけです。

 

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 ところで教育の民営化が最も進んでいるアメリカでは、チャータースクールと称する「公設民営」の学校が拡大を続けています。これは従来の公立学校を解体して、建物はそのままで運営を民間に任せるものです。これも典型的な「コンセッション方式」の民営化と言えるかもしれません。

 このチャータースクールでは、教員の非正規化が極端に推し進められ、教員は100%の非正規教師となり、労働組合も禁止です。こうして賃金を最低限に切り詰められた教育環境で、教師は政府がおこなう統一テストで競争させられ、成績が向上しないと見なされた学校の教員は解雇されて、学校は疲弊していきます。

 しかしアメリカでは「チャータースクールは7年で投資額が倍になる人気投資商品」(堤未果、前掲書191頁)だそうですから、その勢いは衰えることはなさそうです。その一方でアメリカの教育は荒廃する一方です。

 平和学の創始者として有名なヨハン・ガルトゥングは、「アメリカの教育は荒廃しきっている」「アメリカで唯ひとつ教育で誇れるのは大学院の博士課程だけだ」と述べたことがありますが(『日本は危機か』かもがわ出版1999、99頁)、今度の入試騒動を見れば分かるように、日本の教育も、その未来は暗澹たるものです。

 

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 このように見てくると、本論の冒頭で紹介した「ベネッセは、下手したら、高校を会場にして、高校の先生方に監督を頼むみたいな、ありえないことを考えていたフシがあります」という我が研究員からのメールは、ますます真実味を帯びてきます。

 すでに述べたことですが、「高校を会場にして、高校の先生方に監督を頼む」というのは、「ありえないこと」ではなく「ありうること」なのです。それどころか、それが究極の目標ではなかったのかとすら思われるのです。その突破口が英語民間試験ではなかったか、その先兵がベネッセでありGTECだったのではないかと、私は邪推しています。

 このような文脈で考えてみると、萩生田文科大臣の「身の丈」発言も別の意味で真実を突いていたのではないかと思えてきました。「自分の身の丈に合わせて受験会場や受験企業を選んだら」という発言は、初めからGTECを念頭においていたのかも知れないと思い始めたのです。

 なぜなら【図1】を見てもらえば分かるように、GTECの受験料が一番安いのです。英検も安い値段のもの(5800円)もあるのですが、5800~9800円ですから、GTECの6820円と比べれば高く感じられます。また英検のTEAPは1万5000円ですから、豊かではない受験生はGTECを選ぶでしょう。

 

 

 まして高校が会場になれば離島の高校生でも受験できることになります。しかも英検は学校を会場にした予行演習をしていません。

 ところが前述のように、GTECは、文科省が小学6年と中学3年の全児童・生徒を対象にして毎年実施する「全国学力学習状況調査」を、直近5年間、毎年落札しているのです。つまり、GTECは学校を会場にした全国試験を充分に経験済みなのです。

 ですから、この体制を高校にまで拡大すれば、あっという間に英語民間試験をGTECでおこなうことが可能になります。あとは文科省からのゴーサインを得るだけです。だからこそ、文科省の天下り人事を高給で保証してきたのではないでしょうか。これも先述したことですが、こうして今や、文科省はベネッセと一心同体なのです。

 そのうえ今や全国の高校で英語民間試験の予行演習と称してGTECを受験させ、それが教育委員会からお墨付きをいただいたり補助金をもらったりしているのです。これも先述したとおり、文科省の意向がなければ、全国の教育委員会が同じ歩調を取るとは考えられません。

 公立高校でさえ、営利企業の試験が学校を会場にして、しかも授業をつぶし教員を使っておこなわれているのです。このようなことは文科省がベネッセと一心同体でなければできないことではないでしょうか。これはまさに「公設民営」のコンセッション方式そのものではないでしょうか。

 

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 このような流れは、今や公立中学校にまで広がってきています。岐阜市の中学校では、文科省が中学3年の全児童・生徒を対象にして毎年実施する「全国学力学習状況調査」を先日おこなったばかりなのに、それとあまり時間をおかないで、もう一度、GTECの試験を市内の中学生全員に受けさせるという事態が進行しました。

 岐阜市教育委員会の説明では、「中学3年生はすぐ2年後には英語民間試験を受けることになるようだから今から準備させておかなければならない」ということが、その理由だったそうです。しかも各中学校の試験責任者が一堂に呼び集められ、その会場にはGTECから派遣された人が長時間にわたって説明したというのですから、「公設民営」の見本を見るような気がします。

 ところが、このGTECは四技能を測ると言いながら、しかも市内の全中学生に受験させるものとなっているにも関わらず、「スピーキング」の力を測るためのipadは全員分が支給されませんでした。だとすると、同じ機器を何度も使い回しをしなければなりません。

 その結果、学年の生徒を三つに分け、3日間にわたって受験させるという事態になりました。だから、その3日間はすべてGTECのために占領され、まともな授業ができないという有様だったそうです。

 生徒は「こんな試験を受けさせられると、ますます英語に自信がなくなり、ますます英語が嫌いになる」と言っていたそうですし、教師の方も膨大な量の機器や問題用紙・解答用紙が送られてきて、その種分けや配布だけでも大変だったそうです。

 それだけでなく、3日間に分けて「スピーキング」の力を測るための会場設営も全校あげて取り組まないと実施できなかったようです。というのは、「スピーキング」は隣同士の距離が近いと、隣の声が聞こえてipadが正常に機能しないので、机の並び替えが必要になるからです。

 しかもipadというものを日頃から使ったこともない教員も少なくないので、教員にたいする説明や指導が必要になり、このGTECで心底疲れたと、その責任者のひとりは言っていました。この試験が終わっても、しばらく体調が崩れて回復しなかったそうです。

 生徒や教師に、このような犠牲を強いてまでもGTECをやる意味がどこにあるのかと思うのです。そんなことに3日も4日も使うくらいなら、日頃の授業研究をきちんとやることに時間と精力を使った方が、よほど生徒のためになるでしょう。

 しかしGTECにとっては、これほど暴利をむさぼることができる機会はないのですから、裏で教育長や教育委員会、ときには市長にすら少々の賄賂を渡しても、充分におつりが来るのではないかと、思わず妄想を逞しくしてしまいます。

 最近、福井県の高浜原発を抱えた町の助役と関西電力の間で巨額のお金が行き来した事件が明るみに出たばかりですから、なおさら、そのような妄想が浮かんでくるのです。

 

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 ここでどうしても言及しておかねばならないのは、今回の事件で国立大学協会(国大協)がとってきた行動です。

 というのは、最近になって大手メディアは、英語民間試験のあまりの理不尽さを、ようやく暴露し始めましたが、少し考えれば、このような理不尽さに国大協も気づいていたはずだからです。

 ところが国大協は、これに目をつむり、国立大学の受験生全員に「共通テストの英語」と「英語民間試験」の両方を課すことを基本方針とし、それを発表しました。

 大学入試について時間をかけて議論してきた「高大接続システム会議」は、その「最終報告書」を2016年3月31日に提出しましたが、その会議に委員として参加していた南風原朝和氏(はえばら・ともかず、元東京大学副学長)は、この会議について次のように述べています。

 「国語などで一部、記述式問題を導入すること等をめぐって熱い議論が交わされたが、英語試験については、ほとんど話題になっていない。」(岩波ブックレット『検証 迷走する大学入試--スピーキング導入と民間委託』6頁)

 

 ところが、この最終報告が出された後、文科省は衆知を集めた議論を避け、一方的な方針を次々と出すようになったのです。そのなかでいつの間にか英語の試験を民間に丸投げすることになりました。これについても先述の南風原氏は次のように述べています。

 「そして、2018年3月に、それまですべて公開で審議されてきたシステム会議が終了し、5月以降、文部科学省のもとでの非公開の審議に移行してまもなく、この英語入試改革の流れが本体の入試改革の流れに合流して、一気に現在の形に向かって進んできたと考えられる。どの局面でどのような意図や出来事があったかは不明であるが、システム会議に参加し、時間をかけて議論をしてきたメンバーの一人としては、そのような大きなテーマに関する議論をしないままシステム会議を終結させたのは非常に残念である。」(前掲書22~23頁)

 

 つまり、時間をかけて議論してきたにもかかわらず、最終報告書が提出された数か月後には「文部科学省のもとでの非公開の審議に移行し」、そして間もなく「一気に現在の形に向かって進んできた」と言っているのです。

 要するに「高大接続システム会議」は単なるガス抜きの場であり、文科省にとって大切なことは全て非公開の場で決められ、英語試験の民間への丸投げも、そこで決められたということです。

 

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 しかし7種類もある民間試験の統一性をどう保つかという難問が残っています。そこで7種類を統一的に測る物差しとしてEUで開発されたCEFR(セファール)という尺度を使うことにしたのでした。

 ところが驚いたことに、各民間試験とCEFRの対応関係を決めるための文科省の作業部会は、やはり非公開で、メンバー8人のうち5人までもが、GTECのベネッセや、英検の日本英語検定協会など、民間試験を実施する団体の幹部職員(GTEC3人、英検2人)でした。

 しかも、作業部会の主査は上智大学の吉田研作教授で、日本英語検定協会主催の試験TEAPの開発者の一人です。また主査代理である東京外大の根岸雅史教授や、部会員でやはり東京外大の投野由紀夫教授は、共にベネッセのHPにGTECの推薦者として名を連ねている人物です。

 これでは、利益相反の極致ではないでしょうか。GTECや英検を「英語民間試験」に採用させるために、CEFRという本来は趣旨の違う物差しを使って、GTECや英検などの矛盾点・不整合性を必死になって覆い隠そうとして工作していることが、この陣容でよく分かります。

 なぜなら、そもそもCEFR(ヨーロッパ言語共通参照枠)は、EUが統合され人間の交流が激しくなってきたことの反映として、外国語能力をおおまかに判別する手段として考え出されたものでした。

 しかも、「自分の母語(あるいは母国語)以外に二つの外国語を」というスローガンを掲げ、四技能の全てを均等に発達させることを目標としていません。そのひとの必要に応じて「読む」だけでもよいし「話す」だけでもよいのです。

 にもかかわらず、文科省は四技能を均等に発達させなければならないとし、指導要領も教科書もそのように作成・編集されています。だから教師は四技能を均等に発達させなければならないと思い込んで授業に取り組んでいます。

 しかし何度も言うように、CEFRは、そのようなことを目標につくられていません。ですから、そのような趣旨の違うものを物差しにして七種類の試験に統一性を与えようとするのは、最初から無理があるのです。

 

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 この程度のことは国大協のメンバーは当然知っていてもよいことですから、英語民間試験を大学の英語入試に使うということは、最初から拒否すべき性質のものでした。

 国大協で真っ先にそれを公表したのは東京大学でしたが、さっそく東大の学長は文科省に呼び出され、交付金や助成金を減らすと脅かされたのでしょうか、早々と前言を翻してしまいました。

 東大は「実質的には、英語民間試験の成績を入試の点数として加算しないけれど、英語民間試験のどれかを受験することを出願要件とする」と表明したわけです。

 しかしこれでは、逆に英語民間試験の収益活動を裏から支えることになりかねません。GTECなどの英語教育産業にとっては、受験してもらうだけで大きな収入を得るわけですし、正規の受験でなくても予行演習として受験してもらえば、もっと収入が増えます。

 他方、高校生にとっては、たとえ「点数に入れない」「どれかを受験するだけでよい」と言われても、受験する義務からは逃れることはできません。ですから、国大協は「英語民間試験というものは国立大学の入試になじまない」と最初から拒否すべきだったのです。

 それが最高学府としての役目でしょうし、そこにこそ大学人としての識見と知性を発揮すべきだったのではないでしょうか。そうしてこそ、高校生は救われたでしょう。

 ところが昨今の国立大学は、学長選挙で学長を選ぶという従来の慣行を投げ捨てる大学も増えてきましたし、たとえ学長選挙をしても、それが理事会や文科省から拒否されるという事例も少なくありません。こうして現在の学長は文科省にお伺いをたてる「ヒラメ学長」ばかりになりつつあります。

 これではノーベル賞級の研究が生まれるはずがありません。真の独創的な研究は既成の価値観に挑戦するところから生まれるからです。既成の価値観に従順である限り、独創的な研究は生まれようもないでしょう。

 

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 ここで、もう一つ付言しておきたいことがあります。それは文科省が「英語民間試験に合わせて現在の指導要領を変えたい」と言い始めていることです。

 これは、「人間のサイズに合わせてベッドの長さを決める」のではなく、「ベッドのサイズに合わせて人間の足を切り縮めたり引き伸ばしたりする」愚行とよく似ています。

 このようなことを言い出したのは、英検やGTECの問題が指導要領に則ってつくられていないという批判をかわすためでしょう。まして外国の試験であるTOEFLやIELTSが文科省の指導要領に従っていることは、先ずあり得ません。

 今頃こんなことを言い出すのは、いかに文科省が教育的観点ではなく「まず入試の民営化を」という発想で動いてきたか、ということの証明ではないでしょうか。

 彼らは、教育という観点ではなく、経済という観点で行動してきたのです。口では「英語教育の改革を」と言いながら、頭では「教育産業の活性化」しか考えてこなかったのです。

 アメリカがイラクに侵攻するとき、サダム・フセインが大量破壊兵器をもち民衆を毒ガスで殺しているから「人道的見地から」アメリカはイラクに出撃しイラク民衆を救わなければならない、と言ってきたのに似ています。

 だとすると、「日本人は英語が話せない。だから英語改革を」という文科省の言い分も再検討する必要があります。

 

 そこで問題点を次のように設定してみましょう。
(1)日本人の英語力は世界的に見て、それほど低いのか
(2)英語力=「話す力」なのか、「話す力」はそれほど必要なのか
(3)英語力と研究力は比例するのか。ノーベル賞の受賞者は英語が達者だったのか

 

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 文科省や自民党の文教族が声高に「英語で授業を」と叫んだり、「入試改革で日本の英語教育を変える」と言ったりするのは、「日本人は英語ができない」という思い込みがあるのかもしれません。

 確かに日本人は英語で話すのがそれほど上手いとは言えません。しかし会話力=英語力ではありません。日本人が会話が不得手というのは、英語を話す機会が少ない、日常生活で英語で話す必要に迫られていないことの反映にすぎません。

 その証拠に私が韓国、中国、ベトナムを旅行したとき、土産物売り場では流ちょうな日本語で話しかけられて驚くことが少なくありませんでした。聞いてみると彼らは小学校から日本語を勉強したわけではなく、日本人の観光客が多いから必要に迫られて独学したり日本語学校で学んだと言っていました。

 ベトナムではホームレスの子どもが英語で絵はがきを売りつけてきたり、日本人だと分かると即座に日本語に切り替えて話しかけてきました。彼らはストリートチルドレンですから学校に行って英語を学んだり日本語を学んだわけではありません。生きるために、観光に来た日本人を教師に日本語を鍛えたにすぎませんでした。

 ですから「日本人は英語ができない」と声高に言い続けることは、日本人の劣等感に拍車をかけるだけで教育的には何の意味もありません。

 それどころか「日本人は会話ができない」という理由で、「会話練習に大きな時間をかけること」「英語の授業を日本語を使わずに英語で授業をすること」は、この劣等感を増幅させるだけでなく、むしろ英語力を低下させることにもなります。

 なぜなら日本語を使えば簡単にすむ説明を英語でするから、生徒はなおさら英語が理解できなくなったり英語が嫌いになったりします。

 また日常的に使わない単語や文句は、どれだけ憶えてもすぐ記憶から消えて行きます。ザルに水を入れても溜まらないのと同じです。これを私は「ザルみず効果」と名付けているのですが、このような授業を小学校からやってもほとんど教育効果が出てきません。

 それどころか、今までは「中学校から英語をやっているのに話せるようにならない」という嘆きが、今度は「小学校から英語を学習しているのに話せるようにならない」という嘆きになり、絶望感が一層深くなるだけでしょう。「日本人はやっぱり頭が悪いんだ」と、日本人がみずからの能力に見切りをつけることに英語学習が貢献するということになりかねません。

 かつてアメリカの黒人が白人によって「黒人は頭が悪い」と思い込まされていたのと同じことを、英語の授業で、あるいは英米人によって刷り込まれることになりかねません。なぜなら、英米人はともすると「英語話者はそんな言い方をしない」「それは間違った英語だ」と日本人を非難することが少なくないからです。

 しかし長年、日本に住んでいながら「日本語を話せない自分」「日本語を読み書きできない自分」に思い至らない英米人も少なくないのです。

 日本人は日常的に英語と接していないし、英語を話さなければならない環境で生きているわけでもありません。

 ところが日本に長年住んでいても「日本語が読めない書けない」どころか、「話せない聞けない」英米人を私は数多く見てきました。

 だとしたら「英語を話せなくて何が悪い」「おまえは日本にいるのだから日本語を話せ」と開き直る度胸や根性が必要なのではないでしょうか。

 日本にいる英米人は英語で話しかけられるのに慣れてしまっているので、英語を上手く話せない日本人を蔑視する傾向があるように思います。

 かつて戦後の日本を占領軍指揮官として支配したマッカーサーは「日本人は12歳の子ども」と言ったそうですが、そういう態度の英米人をみると、さすがにいい気はしません。

 ところが白人とみると、会話練習とばかり、すぐにすり寄って行く日本人も少なくないので、本当に憂鬱になります。

 ダグラス・ラミスは名著『英会話のイデオロギー』のなかで、「英米人は日本に来た途端に教師になる」と言っていますが、このように考えてみると、そんな態度を助長してるのは、むしろ日本人なのかも知れません。

 日本にあこがれてきたフィリピン人が、いつの間にか英語を話せない日本人に対して優越感をいだくようになっていくのも、それを助長しているのが日本人なのかも知れないのです。

 

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 私の研究所の研究員のなかに英語教師がいますが、彼は成績評価の基準を公開して、それを動機づけの一つにして授業をおこなっていて生徒の評判は悪くないのですが、一つだけ気になることがありました。

 彼は成績をつける際、「必修課題」と「選択課題」を生徒に明示して、それらに取り組ませていました。このような評価方式も取り組む課題が明確になるので、生徒にとっても有難い評価方式です。

 しかし「必修課題」のなかみを見て少し気になることがあったのです。というのは生徒全員が義務として取り組むべき課題として「ALT(英語指導助手)に必ず最低*回は話しかけること」という項目があったからです。

 しかし、このような課題が必修だとすると、先述したように、英語で話しかけることのできない自分が、ますます惨めに見えてくる危険性があります。

 そこで、この項目を「必修課題」からはずして「選択課題」にしたらどうかと提案しました。そうすると生徒の顔が明るくなり、かえって生徒はALTに気楽に話しかけるようになったという報告がありました。

 

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 しかし、そもそも本当に日本人の英語力は世界的に見て、そんなに低いのでしょうか。

 確かに、寺沢拓敬『「日本人と英語」の社会学』に載せてある「英語力保持者の国際比較」という図表を見ていると、「高度な英語力」という項目では日本が一番低いので、日本人の英語力はこのなかで最低というふうに見えないこともありません【図2】。

 

 しかし、この図の上下を逆転させた【図3】をみてください。

 そうすると、灰色の「英語力なし」という項目では(フィリピンのように完全に英語を公用語としている国は別として)シンガポールやマレーシアのような英語をほぼ公用語とする国でも「英語力なし」というひとが少なからずいることに驚かされます。

 しかも、ギリシャ、ドイツ、ポルトガル、フランス、タイ、スペイン、イタリア、インドネシア、台湾、中国、韓国といった国が、のきなみ日本よりも「英語力なし」の比率が高いのです。

 そこで日本よりも「英語力なし」の比率が高い国を、高→低の順に並べてみると、次のような順になります。

 

 イタリア→スペイン→中国→ギリシャ→インドネシア→フランス→台湾→ポルトガル→ドイツ&タイ→韓国

 

 こうしてみるとCEFRという物差しを開発して「母語(母国語)以外に二つの外国語を!」と呼びかけているEU諸国に、意外と「英語力なし」の比率が高い国が多いことに気づかされます。

 そこで、上記の高→低の順に並んでいる「英語力なし」の国のなかで、EU諸国だけを抜き出して並べてみると次のようになります。

 

 イタリア→スペイン→ギリシャ→フランス→ポルトガル→ドイツ

 

 EUの会議では英語がなかば共通語になっている感がありますが、それにもかかわらず、イタリアを初めとしてスペイン語を母(国)語とするイタリア、スペインや、スペイン語とあまり変わらない言語をもつフランス、ポルトガルで、「英語力なし」の比率が高いのです。

 これは驚くべき事実ではないでしょうか。だとすれば、「日本人は英語力がないんだ」という宣伝は、日本人をなるべく貶めて元気をなくさせる戦略ではないかとすら思わされます。

 しかも恐ろしいことに、その宣伝の先頭に立っているのが自民党であり文科省なのです。

 いまイギリスはEUから脱退しようとしていますが、もしそうなれば英語はEUの会議語・公用語としては使われなくなりますから、ますます英語の影響力はEUで小さくなっていくでしょう。これはドルの威力が現在ますます小さくなりつつあるのと並行しています。

 だとすれば、私たちは「英語が話せない」という理由で卑下する必要は全くありません。むしろ話せなくても英語で読み書きできる基礎学力を保持していることを、もっと誇るべきなのです。

 黒人がマルコムXの「Black is beautiful」というスローガンに励まされて、公民権運動に邁進したのと同じように、「辞書さえあれば英語を読み書きできる」ことに、私たちはもっと自信と誇りをもって、日本の立て直しに邁進すべきなのです。

 

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高校英語の教科書

 いま学校教育では英会話に多大なエネルギーを割いていますが、それは「ザルみず効果」で効果がないだけでなく、むしろ英語力を低下させ、同時に日本語力をも低下させます。憶えてもすぐ忘れることに精力と時間を削がれ、その分だけ日本語を鍛える時間が奪われるからです。

 その一例を少し紹介させていただきます。

 先日、週刊『エコノミスト』11月5日号で東大の阿部公彦教授が「英語民間試験」について言及しているという知らせを、週刊誌『I・B TOKYO』の記者からいただきましたので、さっそく注文しようと市内の本屋に電話しました。

 ところが電話に出た店員が、週刊『エコノミスト』を知らないので、何度も書名を繰りかえすことになりました。これだけ「小学校から英語を!」と叫ばれているにもかかわらず、「エコノミスト」という簡単な単語すら理解できない店員に、私は思わず絶句してしまいました。

 しかし何度、「エコノミー(経済)」→「エコノミスト(経済学者)」と繰りかえしても理解してもらえないので、仕方なく「エ・コ・ノ・ミ・ス・ト」と、一語ずつ区切って言わざるを得ませんでした。それでも、その店員は不安だったようで 「念のためISBNの番号を教えてください」と言うので、更に絶句。

 思わず 「economy, economistという単語を知らないの」と叫んでしまいました。一般人ならいざしらず、いちおう知的分野の一角を占める本屋の店員が、 economy、economistという簡単な単語すら知らない、脳に定着していない事実に、暗澹としました。

 これが「小学校から英語を!」と叫んでいる日本の英語教育の実態なのです。

 

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 では日本語の方はどうでしょうか。これもかなり怪しくなってきています。

 私は葛飾北斎という画家の、その浮世絵のなんとも言えない色彩とその構図の大胆さ・見事さに、感服しています。ところがあるとき、北斎とその娘を描いた『百日紅(さるすべり)』という漫画があることを知り、さっそく前述の本屋に電話しました。

 ところが電話に出てきた店員は、杉浦日向子の漫画『百日紅(さるすべり)』を知らないので、「さるすべり」という花樹を知らないんですかと尋ねました。するとその店員は、そういう花樹は知らないというのです。

 岐阜市内の庭を持つ家では、「さるすべり」は普通に見られる花樹で、夏になると真っ赤な花を延々と100日間も咲かし続けるので、漢字では『百日紅』と書くのですが、最近の若者はハロウィーンは知っていても、日本の四季には全く興味をもたなくなっていて、市内のあちこちに見られる「百日紅(さるすべり)」も知りませんし、当然それを漢字で「百日紅」と書くことも、それを「さるすべり」と読むことも知りません。

 まして、その「百日紅」は年月が経つうちに樹皮を落とし、猿がその木に登ろうとしても、樹肌があまりにもスベスベしていて、木登り上手の猿でさえ足をすべらせてしまうので、そのような名前がついたということは、その店員にとって知るよしもありません。

 そこで、そのような説明をしてやると、やっと納得して注文に応じてくれたのでした。これも日本中が英語熱・英会話熱に浮かされている悪弊の現れではないでしょうか。

 会話学校で習うような英語のフレーズは、今ではポケトークのような翻訳機器が出回るようになっているのですから、「ザルみず効果」に終わるような英語学習は、もう終わりにしなければなりません。さもなければ、英語力を研究力に転化することは望むべくもありません。

 そもそもノーベル賞を受賞した人たちを詳しく調べてみても、英会話学習にうつつを抜かしていたひとはひとりもいませんでした。だから英会話もそれほど得意ではありませんでした。

 

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 そこで最後に、ノーベル賞受賞者と英語の関わりを少し紹介して本稿を閉じたいと思います。

 まず最初に紹介したいのは、2008年にノーベル物理学賞を受賞した南部陽一郎氏です。氏が1978年に文化勲章を受章した際に、福井新聞社が東京・山の上ホテルで妻、智恵子さんにインタビューしました。そのとき彼女は次のように語っています。

 「彼は私に日本の妻がするような衣類の着せ替え的主婦業は期待してません。その代わり一人前の人間として独立心を持つことを求めます。
 例えば、米国に来てすぐのことですが、電話がかかってきたので『あなた出てよ』と言ったら、彼が『君が出なさい。私が家にいないときは、君が出ないといけないんだから』としかられました。
 こんなふうに厳しいんですが、結果的には私が早く英語ができるようになり、米国の生活に慣れましたの。こうして、いろんな意味で教えられました。」
(福井新聞社『ほがらかな探求 南部陽一郎』2009:112)

 

 福井新聞社が智恵子さんにインタビューしたのは、南部陽一郎氏が福井県出身だったからなのですが、この記事を読むと、南部氏は英会話が得意だったからアメリカに行ったわけでもなく、英語ができたからアメリカで研究生活を送ることができたわけでもないことが分かります。

 妻の智恵子さんが「結果的には私が早く英語ができるようになり…」と言っていることは、アメリカに行ったとき2人ともそれほど英語ができたわけではなかったということを示しています。

 それどころか、生活言語としての英語には、むしろ智恵子さんの方が早く慣れてしまったのです。主婦として買い物などで「生活言語としての英語」を毎日のように使うわけですから、これは当然のことでしょう。

 ではアメリカで研究者としての南部氏を支えたのは何だったのでしょうか。それはもちろん数学であり物理学であって英会話ではありませんでした。

 研究者として先ず第一に必要なのは、自分が研究したい分野でどのような論文がすでにあり、どこまでその研究が進んでいるかです。

 そのためには先行研究を読み尽くさねばなりません。ですから先ず第一に要求されることは英語論文を速く正確に「読む力」であり、会話力ではありません。

 次に要求されるのは英語で論文を発表するための「書く力」です。しかし大量の論文を読んでいれば、論文の「書き方」は自然に習得できます。

 すでに大量の論文を読んでいるのですから、そして、それを真似て書けばよいのですから、英語で論文を「書く」のは比較的簡単です。

 ところが東大でも京大でも、最近は、理系に入った学生は「将来、英語で論文を発表しなければならないだろうから」という理由で、徹底的に「英語の書き方」を訓練する授業が、教養部の英語授業に組み込まれるようになりました。

 しかし、これは全く本末転倒です。教養部時代の貴重な時間を英作文に奪われ、読みたい本を大量に読む時間を奪われるとしたら、研究力は伸びるどころか縮んでしまうでしょう。

 たとえば、「ここの前置詞の使い方は間違っている」「ここで使うべき冠詞はa ではなくthe である」などと、細かく添削されればされるほど、教養部時代の学習は英語一色になり、知的好奇心に従って読むべき本も、読む時間がなくなるでしょう。こんな環境では、創造的な芽が育つはずはありません。

 鈴木章氏は2010年にノーベル化学賞を受賞しているのですが、ウィキペディアによれば、当初は数学を志していた鈴木氏が有機合成の道へ進んだ契機となったのが、2冊の本との出会いであったと語っています。

 一つは、北海道大学教養部の教科書として用いられた、米ハーバード大学のフィーザー教授夫妻の著した『テキストブック・オブ・オーガニック・ケミストリー』というアジアの学生向けの英語による有機化学を説明した廉価本で、もう一つは、恩師となった米パデュー大学ブラウン教授の『ハイドロボレーション』という、英文で書かれたホウ素化合物の合成反応に関する本だったそうです。

 ですから英語学習の基本はまず「読むこと」であり「書くこと」「話すこと」ではないのです。ところが今、大学入試は「話すこと」に焦点が集中し、しかもそれを民間企業に売り渡すことをめぐって多大な時間と労力とお金が浪費されています。全くの無駄遣いとしか言いようがありません。

 

26

 

 大学における「研究力」は「会話力」ではないという例を、もう一つだけ紹介しておきます。2016年にノーベル生理学・医学賞を受賞した大隅良典氏は、大学院博士課程を終了し、1974年に博士号を取得した後、「博士研究員」としてロックフェラー大学に留学しています。

 私は拙著『英語で大学が亡びるとき』で、「留学するのであれば博士研究員として留学すればよいのであって、アメリカの大学は博士課程すら行く必要はない」と主張してきたのですが、大隅氏も私の主張するとおりの道を歩んでいました。

 というよりも、今までのノーベル賞受賞者を調べてみると、学部レベルどころか大学院博士課程でさえ、アメリカの大学に行っていないひとが圧倒的多数なのです。

 ということは、留学のための英語学習に多大な時間と労力を奪われなかったからこそ、ノーベル賞を受賞できたとも言えるのです。

 それはともかく、大隅氏は自分の留学について次のように語っています。

 「ニューヨークへの出発は1974年の暮れでした。単身赴任という選択肢もありましたが、初めての海外渡航で、またとない機会ですので、妻、長男と3人で一緒に行こうということになりました。
 留学したロックフェラー大は、マンハッタン島のほぼ中央のイーストリバー沿いにあります。まずは、大学に近い一番街にある古いアパートに入居しました。(中略)
 3年間米国で暮らしたので、さぞ英語は達者になっただろうと思われそうですが、実は2人とも英語は全く鍛えられませんでした。
 妻は同大の遺伝学研究室に客員研究員のポストを得ましたが、私たち2人の研究室は、ともにほとんどミーティングを行わず、発表や議論の機会も少なかったのです。
 家に帰れば日本語の世界で、保育園に通っていた長男だけが、テレビを見て笑っているというような生活でした。」
(「時代の証言者大隅良典」『読売新聞』2019年6月25日)

 

 ご覧のとおり、大隅氏も英語ができたからアメリカに留学したわけではありませんでした。それどころか、3年間もアメリカで暮らしたにもかかわらず「実は2人とも英語は全く鍛えられませんでした」と言っているのです。

 では大隅氏は、どのような研究生活をおくっていたのでしょうか。それを氏は、「私たち2人の研究室は、ともにほとんどミーティングを行わず、発表や議論の機会も少なかった」と述べています。

 ですから大隅氏の研究生活は、先行研究の論文を読んだり実験したりの毎日で、アメリカにいたときは「話す力」をほとんど要求されなかったのです。それでも大隅氏はノーベル賞につながる研究を続けることができました。

 だとすれば研究者に必要とされているのは、「日本語で深く思考する力」であって「英語で会話する力」ではないのです。ですから小学校から英語を学習する必要もありません。

 その証拠に、ウィキペディアによれば大隅氏は次のような少年時代を送っているのです。

 「家は福岡市の外れにあり、周囲は農家の子どもたちばかりという環境で、皆と一緒に自然の中で遊んだ。幼い頃から、兄の和雄に贈られた自然科学の本に親しんだ。特に八杉龍一の『生きものの歴史』、マイケル・ファラデーの『ロウソクの科学』、三宅泰雄の『空気の発見』などに心を動かされ、科学に興味を持った。」

 

 しかし現在の学校は、中学校までも、「英語の授業は英語で教える」ことを強いられ、小学校でさえ英語の「教科化」が進められてきています。

 それどころか、英語特区として「小学1年生から英語を教える」ことを売りにしている市長・町長まで現れるようになってきています。

 このように今の日本は、ますます英語漬けの雰囲気が強まり、大隅氏が過ごしたような少年時代をおくれないような環境になってきています。

 しかし、自然と親しみ、知的好奇心を掻きたてる本を読むなかで、科学する心が育っていったことを、大隅氏の軌跡がよく示しているのではないでしょうか。

 だとすれば、現在の文科省が進めている文教政策は、有害無益と言ってよいでしょう。というよりも、安倍政権が進めているのは「教育政策」ではなく「経済政策」なのです。

 

おわりに

 

 「話す力」を試す試験は全国一斉の大学入試に必要ありません。ノーベル賞につながる研究でさえ、「話す力」は直接、必要なかったのですから。

 では、どのような大学入試が望ましいのか。もうすでに充分長くなっていますので、これについては別の機会に詳しく述べたいと思います。

 また、このたび話題になっている「記述式テスト」についても述べたいことは多々あるのですが、またの機会を待ちたいと思います。

 (元岐阜大学教育学部英語教育講座教授

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