いかなる権威にも屈することのない人民の言論機関

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英語教育を妨げているのは教師の英語力・会話力なのか 国際教育総合文化研究所・寺島隆吉

1 はじめに

 

チョムスキー氏(右)と著者

 かつて新潮社『新潮45』編集部からのインタビューがありました。朝日新聞「争論―大学生は英語で学べ?」の私にたいするインタビュー記事「深い思考奪い、創造の芽摘む」(2014年7月3日)を読み、「つきましては、もう少し詳しくお話をお聞きしたい」とのことでした。

 要するに、安倍内閣の教育再生実行会議および文科省が、日本の経済力を強化するため日本人に英語力をつけることが不可欠だとして、高校の英語授業だけでなく大学の一般教育の授業にまで「英語で授業」を拡大しようとしているが、このことについて話を聞きたいというのです。

 この編集部の方からのインタビューに答えているうちに、拙著『英語教育が亡びるとき』にたいする次の書評を思い出していました。これはインド在住の日本人女性作家モハンティ三智江さんからいただいたものです。

 

 「まず、以前に『チョムスキーの教育論』を読ませていただいたときにも感じたことですが、先生がお書きになっている日本語が素晴らしいこと、私にとっては異質のジャンルで、ご高著は、EH研究会とのご縁がなければ、紐解くことは断じてありえなかった種類の書ですが、一見して難しく思えることがわかりやすい的確な日本語で書かれており、文芸物が好きな私にもすんなり入り込めること、ブログをお読みしたときにも感じたことですが、先生の日本語は、第一級との印象を新たにいたしました。

 英語教育というご専門を究められていくなかで、ことばを操る者としての責任に目覚められ、翻訳にあたっても、ご自分で書かれるにあたっても、的確かつわかりやすい説明・描写を心がけている努力が感ぜられます。英語の前に母国語をまず究めることの大切さが書かれていますが、そのお手本のような日本語で、門外漢の私が惹かれるのはひとえにその表現としての母語の流暢さです。読ませる筆力をもってらっしゃるがゆえに、英語教育の話も、興味深いトピックとしてすんなり入ってくるのです。」

 

 私は、モハンティ三智江氏からいただいた書評にたいして、次のようなコメントを付けて、ブログに掲載させていただきました。

 

 「……ところが、『一見して難しく思えることがわかりやすい的確な日本語で書かれており』『文芸物が好きな私にもすんなり入り込める』文章を、難しく感じる英語教師が少なくないです。とすれば、これは非常に深刻な事態だと思います。これでは行間を『ふくらませて』味読せねばならぬ文学作品は、手も足も出ないのではないでしょうか。

 しかも、母語の水準を越える外国語能力を身に付けることは、まず不可能ですから、母語の読解力(そして表現力)が低ければ外国語の到達レベルもその程度で頭打ちになります。

 ところが文科省は、英語教師の国語力がどの程度のものかも調べずに、いきなり『英語で授業』を英語教師に要求しています。

 これでは、英語教育の未来は暗いと言わざるを得ません。私が『英語教育が亡びるとき』と言うゆえんです。

 

 そこで、上記のコメントで私が言い足りなかったこと、もっと書きたかったことを以下で追加したいと思います。

 

2 何よりもまず、日本語を「読む力」と「書く力」こそ

 

 国語教育の実践家かつ研究者として有名だった故大西忠治氏は、教材として取りあげる文章を大きく「説明的文章」と「文学作品」の2つに分け、生徒に教えなければならないのは、前者では「しぼって読む」、後者では「ふくらませて読む」ことであると主張しました。

 私が小学校から高校までに教わった国語教育で印象に残っていることと言えば、漢字学習くらいで、あとは何も残っていません。ですから、高校の英語教師になったとき、この大西氏の実践と研究は私に大きな衝撃を与えました。

 他方、理科教育「仮説実験授業」で有名な板倉聖宣氏は、「説明文は、他者にたいして何かを説明している文なのだから、論理的に明晰で誰にでも理解できる簡潔明瞭なものでなければならない」と主張しています。

 ふだん英語教師が読んだり書いたりする文は「文学作品」ではなく「説明的文章」です。拙著『英語教育原論』『英語教育が亡びるとき』『英語で大学が亡びるとき』も文学作品ではなく、私の主張する英語教育論を説明するためのものですから、これも「説明的文章」です。

 ですから、私が『原論』や『亡びるとき』を書いたとき常に念頭にあったのは、板倉氏の主張する「論理的に明晰で、誰にでも理解できる簡潔明瞭な文章を書く」ということでした。そのときに大いに参考になったのが本多勝一『日本語の作文技術』でした。

 この本は、主として単文レベルの作文技術を扱っているのですが、句読点をどこに打つと理解しやすい文になるか、修飾する語句をどこに位置させれば誤解をうまない文になるかなどが具体例をつうじて丁寧に説明されていて、非常に教えられることの多い本でした。

 ところで、モハンティ三智江さんへの返信で、私が「論理的で明晰な文章」を強調したもう一つの理由は、「論理性に乏しく明晰さを欠く日本語」を書く英語教師が少なくないことに驚かされたことにあります。

 私が教育学部に在職していた頃、毎年のように現職教員を大学院生として受け入れてきました。しかし受け入れてみて驚いたのは、Excelなどを使ってシラバスや授業計画を書いたことはあっても、ワープロを使ってきちんとした文章を書いたことがない教員が少なくないことでした。

 ひどい場合には、自分の思考を論理的に展開できず、単文の羅列といった感じの文章しか書けません。段落と段落をつなぐ論理的接続語どころか単文と単文をつなぐ論理的接続語も欠けているので、どうしても単文の羅列という印象になります。メモ書きのような文章と言ったほうがよいかも知れません。

 訓練すれば一定の分量は書けるようになりますが、自分の実践報告を書かせても、どのような教材をどのように授業で使い、それにたいして生徒がどのように反応したのか、それにたいして教師はどう答えたのかが分かるように書かれていないので、うまくいかない授業のどこをどう改めて良いのかを指導できないのです。

 要するに、時間軸あるいは空間軸に沿って説明的文章を書く、[さらには実践報告ですから生徒のようすも固有名詞(仮名でよい)で書く]といったことに慣れていないので、実践報告を読んでいても授業のようす、生徒の声と姿が私の頭に生き生きと伝わってこないのです。

 日本語を使っても授業のようすを私に分かりやすく説明できないのですから、どうして英語で生徒に分かりやすい授業ができるのでしょうか。英語どころか日本語で説明したとしても生徒に分かる授業になっているのか、それすら疑問です。

 少なくとも私は、彼らが教えている生徒よりも理解力は優れていると思っていますが、その私に理解できないことばでしか授業のようすを説明できないとしたら、そのような教師の説明をどうして生徒は理解できるのでしょうか。

 また、そのような日本語力しか持たない英語教師が、いわゆる「日常会話の英語」[すなわち生活言語]を多少は話せたとしても、内容のある教科書を、生徒が理解できる「論理的で明晰な英語」[すなわち学習言語]を使って、どうして説明ができるのでしょうか。

 最近は携帯メールが盛んですから、生徒が単文の羅列、メモ書き風の文章しか書けないというのは納得できるのですが、教師もメモ書き風の文章しか書けないとなれば、ことは深刻です。そのような文章しか書けない教師の思考が、深いものであったり論理的・批判的・創造的であることは、期待しようもないからです。

 もうひとつここでどうしても書いておきたいことは、翻訳とその日本語についてです。これについては、先述のように、三智江さんから下記のような過分なお褒めの言葉をいただいています。説明の都合上、もういちど引用させていただきます。

 

 「まず、以前に『チョムスキーの教育論』を読ませていただいたときにも感じたことですが、先生がお書きになっている日本語が素晴らしいこと(中略)ブログをお読みしたときにも感じたことですが、先生の日本語は、第一級との印象を新たにいたしました。

 英語教育というご専門を究められていくなかで、ことばを操る者としての責任に目覚められ、翻訳にあたっても、ご自分で書かれるにあたっても、的確かつわかりやすい説明・描写を心がけておられる努力が感ぜられます。

 英語の前に母国語をまず究めることの大切さが書かれていますが、そのお手本のような日本語で、門外漢の私が惹かれるのはひとえにその表現としての母語の流暢さです。読ませる筆力をもってらっしゃるがゆえに、英語教育の話も、興味深いトピックとしてすんなり入ってくるのです。」

 

 私が翻訳するにあたって心がけていることを、文学賞を受賞されている三智江さんからズバリ指摘していただき、まさに「我が意を得たり」の感を強くすると同時に非常に面はゆくもありました。

 この翻訳の日本語について最近、私は2つのことを思うようになりました。そのひとつは高名な作家が外国の文学作品を翻訳する場合は別としても、哲学や社会科学の翻訳書の場合、その日本語が非常に読みづらいということです。読みづらいどころか意味不明のものすらあります。

 たとえば私が学生だった頃、教養学科で、ルカーチ『歴史と階級意識』(城塚登・古田光共訳、白水社、1975)をテキストに使った授業に出たことがあります。しかし私にはその翻訳を読んでいても意味が理解できなかったのです。当時の私は、哲学というのは難解で私のような鈍才には理解できない代物だという意識だけが残りました。

 しかし今から振り返ってみると、和訳が直訳調で、しかも新旧の情報の流れを全く無視した翻訳ですから、前文と後文のつながりが論理的に理解できない、論理的に流れない文章になっていたのです。ですから、翻訳された日本語の文章どおりに理解しようとしても論理的につながりません。だから読んで意味が通らなかったのも無理はなかったのです。

 

 もうひとつ例をあげます。私がノーム・チョムスキー『チョムスキーの教育論』やハワード・ジン『肉声でつづる民衆のアメリカ史』を翻訳したとき、分からない事項があるとき、しばしばウィキペディアを利用しました。

 しかし、このウィキペディアの日本語が非常に理解しづらいものであったり、内容的にも貧弱すぎて、結局は英語版ウィキペディアを参照せざるを得なくなることが少なくありませんでした。

 そして分かったことは、日本語版ウィキペディアの多くは英語版の事項を単に翻訳しただけのものが圧倒的に多いということでした。しかも、その翻訳は英語版を適当につまみ食いして翻訳してあるので、文章として論理的につながっていず、時には理解不能になるということです。

 翻訳の日本語が分かりにくいのは、私見では2つの理由があるように思います。1つは論理的で明晰な文章を書く訓練を学校時代にほとんど受けていないことです。このような訓練を受けていれば自分の和訳も読者に理解しやすい日本語にしようと努力するはずですが、そんな訓練を受けていないので自分の訳文が気にならないのです。

 もう1つは原文の意味がよく分からないので、仕方なく、意味不明のまま直訳調の日本語にしてごまかす場合です。文章の論理的な流れが分からなくても、単語の意味を調べ文法構造のとおりに関係代名詞で修飾された文章は後から訳しあげていけば一応の訳文はできあがるわけですから。

 要するに私がここで言いたかったことは、「日本の英語教育は、『読めるが話せない人間』を大量生産している」というのが俗説であり、いかに間違った認識かということです。

 そして、この間違った認識をもとに、「話せる日本人」を育成するという理由で始められたのが新学習指導要領の「英語で授業」でした。しかし最近のTOEICの調査でも、日本人は「聴解力」よりも「読解力」の方が点数が低いのです。

 であるにもかかわらず、文科省は、中学・高校の英語授業だけでなく、大学の共通教育の授業まで「英語でおこなう」と言い始めています。高度な文章を直読直解する力が育っていないのに、どうして直聴直解が可能になるのでしょうか。拙著『英語教育が亡びるとき』の書評で三智江さんが次のように書かれていたことが改めて思い起こされます。

 

 「日本語にしろ、英語にしろ、読むことは大事ですね。量を読むことによって、語彙が培われる。英語の読み書きをしっかりしておけば、自然に会話力もついてくる、その通りだと思います。」

 

 こう考えてくると、安倍内閣が次から次へと打ち出す教育政策は、真面目に考える教師にとっては頭がおかしくなりそうなものばかりです。これでは教育現場でうつ病の教師が激増しているのも無理はないでしょう。教師が次々と病気休職に追い込まれているのも当然ではないかと思えてきます。

 教師の「うつ病休職」急増中―薬事ニュース社(2014年1月31日掲載)

 

3 「英語を読む力」以前に、「日本語を読む力」を

 

高校のコミュニケーション英語の教科書

 ところで、朝日新聞「争論」のインタビュー(「大学生は英語で学べ」)にたいして私が述べた意見(「深い思考奪い、創造の芽摘む」)を読んだ英語教師(戸山さん)から、次のようなメールが届きました。

 

 「私が所属している県の英語教育研究会で話されたことです。○○高校では、この朝日新聞インタビュー記事が職員室に掲示されていたそうです。

 一人の先生が、寺島先生の意見「深い思考奪い、創造の芽摘む」に賛成だと発言したら、次のような発言があり、朝日新聞の論争にはあまり意味がないという雰囲気になってしまいました。

 『大阪大学大学院の工学部建築科では、すでに授業は全部英語で行われている。理由は院生の多くが留学生のため、日本語での授業が成り立たないからだそうだ。だから英語で授業するのが良いとか悪いとかを越えている』

 話題になっている工学部の授業を教えている教授は日本人です。それで話題が、なぜ院生は日本人よりも留学生の方が多いのか、等といったことに移ってしまいました。

 そのうえ日本人院生は授業で自由に英語が使えるわけでもないようでした。

 このような現実をどう考えればよいのか、私もよくわからなくなりました。」

 

 前節では英語教師の「書く力」を問題にしたのですが、私はこの戸山さんからのメールを読んで、この英語教育研究会に集っていた英語教師の「読む力」が気になってきたのです。

 私のところに届いた上のメールによれば、そこに集っていた人たちは、「大阪大学大学院の工学部建築科では、すでに授業は全部英語で行われている」「なので良いとか悪いとかを越えているので、新聞の論争にはあまり意味がない」という意見が大多数だったそうです。そして話題は「院生はなぜ日本人よりも留学生の方が多いのか」ということに移ってしまったというのです。

 これを読んで私は深刻に考え込んでしまいました。

 もちろん「なぜ院生は日本人よりも留学生の方が多いのか」という問題は、それだけでも考察するに価する多くの問題をはらんでいます。しかし私が気になったのは、「英語で授業」はすでに強行されているから議論する価値はないとする教師の姿勢でした。

 これでは「権力者が力にものを言わせて強行したことに逆らっても意味はない」ということになりかねないからです。今の教育現場では校長が絶対的権力をもち、職員会議で議論しながらものごとを決めていくという民主主義の原則がほとんど風化してしまっているので、それが上記のような言動になって現れているのかも知れません。

 教師自身が「権力者が力にものを言わせて強行したことに逆らっても意味はない」という態度を身につけてしまったら、「みんなで決めて、みんなで守る」という民主主義の原則を、どうして生徒に教えてやることができるのでしょうか。どうして生徒に「ものごとを批判的に見る力」「文章を批判的に読む力」を育てることができるのでしょうか。

 また、このような力を抜きにして、「誰も思いつかないようなアイデア」は生まれようがないし、「豊かな発想を生む創造力」も育たないでしょう。このような力を抜きにして、競争が激化している世界を生き抜いていく力をどうして生徒に育てることができるのでしょうか。

 私は朝日新聞のインタビューで、次のように語り始めて最後を次のように結びました。

 

 「競争が激化する世界を日本はどうやって生き抜いていくか。いま一番求められているのが、誰も思いつかないようなアイデア、豊かな発想を生む創造力だと思うんです。

 それには幅広い視野と、深く考え抜く力が必要ですね。

 ところが最近の英語熱は、そのすべての芽を潰しかねない。大学を劣化させ、日本を支える研究の礎を壊してしまいかねません。」(中略)

 「人間には与えられた時間に限りがあります。まずは考える力、そして疑問をもつ力を育てることにこそ大切な時間を使いたいものです。」

 

 上記の研究会に集っていた英語の先生方には、「なぜ院生は日本人よりも留学生の方が多いのか」という疑問は浮かんだのですが、「なぜ留学生は日本語を学ばなくてもよいのか」「英語のできない日本人は留学生の犠牲になってよいのか」という疑問は浮かばなかったようなのです。

 というのは、日本人がアメリカに留学したからといって向こうでは日本語で講義してくれることはありえないからです。それどころかTOEFLの点数を問われるだけです。また留学生がせっかく日本に来ているのに、日本語を学ばせず(ということは日本文化も本当には知ることができない)そのまま帰国させて、私たちのどんな利益があるでしょうか。

 そのうえ留学生の多くは国からの奨学金をもらい授業料も免除になっていることが珍しくありません。だとすれば奨学金も貰わず授業料も免除になっていない日本人院生がなぜ留学生の犠牲にならなければならないのか。大学院というのは英語ができる外国人留学生のためだけに存在するのか。

 このように疑問は尽きることがありません。しかし、私が朝日新聞のインタビューで問題にしたのは、実は大学院のことではありませんでした。それは私がこのインタビューで次のように語っていることからも明らかでしょう。

 

 「ところが、大学1、2年の教養課程から英語で授業を始めたら、幅広い分野を学ぶわけですから単語もあらゆる領域に及ぶ。語彙は無限です。覚えても覚えてもキリがない、底なし沼ですよ。」

 

 つまり私がここで言っているのは、大学院の授業ではなく大学に入学したての教養課程で、数学や工学や経済学などを英語で学ぶ場合の、学生の負担や学習効率を問題にしているのです。

 教養課程では自然科学・人文科学・社会科学を学ぶのですから、それをすべて英語で学んでいたら、辞書を繰っているだけで時間の大半が奪われてしまって、何を学んだかを考えるゆとりもなく、まして疑問をつくり出すことは二の次になっていくでしょう。

 大学というところは、自分の知りたいことが何かを発見する場であり、学び方を学ぶ場でもあると思うのです。そのためには日本語であらゆる分野のものを読み尽くし、自分の知りたいことを疑問のかたちでつくり出すことが必要です。

 したがっておおまかに理科とか文科とかに分かれていてもよいのですが、入学したての教養課程の頃から専門分野が決まっているのはむしろ好ましいとは思えません。貪欲にいろいろな本を読み、自分の知りたいことが絞られてきて、専門課程に入っていくのが理想的でしょう。

 私の場合も教養学部基礎科学科に行くつもりで理科Ⅱ類に入ったのですが、いろいろ本を読んでいくうちに教養学科の「科学史科学哲学コース」に行きたくなったのでした。

 このようにいろいろな本を読んでいくうちに進路はどんどん変わってきます。したがって学部での専攻と大学院の専攻が違うことも珍しくありません。

 いずれにしても、「自分の知りたいことに関する答えを求めて日本の文献や翻訳の文献を読み尽くし、探していたらやっと英語の文献にぶつかった」という出会いの仕方が、原書を読む場合もっとも効率的だと思うのです。それを私はインタビューで次のように言っています。

 

 「私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです。そうやって自らの関心を研ぎ澄ませていけば、専門分野に進めば進むほど範囲が狭まり、使われる語彙の数も限られてくる。そこさえ英語で押さえれば、英語の文献も難なく読めるようになるのです。」

 

 だから英語を研究の武器として使いたいのであれば大学院、とくに博士課程でこそ生きてくるでしょう。修士課程で学ぶ程度のことは、翻訳書も含めて優れた文献がたくさんありますから、日本語の文献で十分に手に入るからです。ですから博士課程で本格的にやりたいことが決まったときこそ英語(あるいは他の外国語)の出番なのです。

 というのは、調べたいことが日本語文献になくても、「専門分野に進めば進むほど範囲が狭まり、使われる語彙の数も限られてくる。そこさえ英語で押さえれば、英語の文献も難なく読めるようになる」のです。

 自分の知りたいことが焦点を結ばないとき、しかも関連分野の文献が日本語で手に入るときは、そちらをまず読み尽くすことが先決でしょう。

 自分の研究したいことが焦点を結ばないにもかかわらず、それを求めて英語の文献を読みあさっていたら、貴重な時間を浪費することになりかねません。1冊の原書を読むのに1ヶ月かかるかも知れませんが、同種のことを書いている日本語の本があれば5~10冊は読めるのです。それを私はインタビューで次のように表現しています。

 

 「しかも英語で1冊の本を読む時間があれば、日本語なら5冊、10冊と読めるわけです。英語の本をやっとこさ1冊読む間に、英米人なら5冊、10冊と読むわけですから永遠に追いつけない。それで勝てると思いますか。iPS細胞を開発した京都大学の山中伸弥教授も、いまのように若いうちから英語、英語と追われていたら、たぶんノーベル賞をとれなかったのではありませんか。」

 

 まして知りたいことは英語で書かれているとは限らないのです。ですから、上記の研究会に集っていた英語の先生方は、「英語の教師」であるより前に「人間の教師」であることを忘れているのではないでしょうか。

 その結果、私が述べてきたようなことが読み取れず、「大阪大学大学院の工学部建築科では、すでに授業は全部英語で行われている」「なので良いとか悪いとかを越えているので、新聞の論争にはあまり意味がない」となってしまったのではないかと思うのです。

 文科省の「新学習指導要領」は、「英語で授業」を中学・高校に押しつけたことで非常に悪名高い指導要領ですが、それでも「文章を正しく要約できること」「文章の要旨を正しくとらえること」を、その到達目標として掲げています。

 ですが英語教育の現場では「いかに英語で授業をおこなうか」だけが評価の重点になっているのです。

 つまり教科書に出てきたフレーズやセンテンスを使っていかにコミュニケーション(悪く言えば「会話ごっこ」)をさせるかだけに精力と関心が注がれています。これでは教師自身の「読む力」は永遠に鍛えられないでしょう。

 なぜなら彼らの多くは採用試験に合わせて、英検やTOEFL、TOEICなどの点数学力だけをあげることに全精力を使いながら英語教師になっているからです。だから「読む」とはどういう作業を指すのかを意識化しないまま英語教師になっている恐れがあるからです。

 私が「英語で授業」に強く反対した理由の一つは、指導要領でこのようなことを教師に強制している限り、英語教師の頭から、「文章を正しく要約できること」「文章の要旨を正しくとらえる」という目標が消えてしまうことを恐れたからでした。

 ましてや「文章を批判的に読む」という目標は最初から頭に浮かんでこないのではないかと思います。

 そして私のこの「恐れ」は、不幸なことに、今や現実のものとなりつつあるのではないか。冒頭で紹介したメールが私にそんな不安をかきたてたのです。

 というのは、その研究会に集って議論した英語教師たちには、インタビューで述べた私の次のことばが、まったく頭に残っていないように見えたからです。

 

 「いまのような丸暗記型の英語教育は、若者の創造力をすり減らすばかり。受験戦争をくぐり、ようやくいろんな本が読めるという時期に英語漬けの毎日を強いていては、『英語バカ』を育てるだけです。文学も経済も科学もかじり、オールラウンドな教養を身につけて初めて、全体を見渡した仕事ができるというものです。

 もちろん、才能あふれる学生が英語もできればすばらしい。英語を母語とする相手と議論し、交渉できる人材を育てる必要も間違いなくあります。しかし、様々な可能性に満ちた大学生全員を、一律に英語漬けにする必要はどこにもない。

 世界を複眼的に見る力が国際力なのに、英米人のものの見方を刷り込む英語教育なら悪い影響を残すだけです。」

 

 私が英語教師に、「英語を読む力」以前に「日本語を読む力」を! と呼びかけたくなった理由が、ここにあります。

 

4 論争点は「原書」と「訳書」の優劣だったのか

 

京都大学の英語による授業科目の案内冊子(国際高等教育院)

 前節では、ある研究会で、朝日新聞「争論」のインタビュー記事「大学生は英語で学べ」が話題になっていたことを紹介しつつ、「英語を読む力」以前に「日本語を読む力」が問題ではないかと述べました。

 ところが、定年退職した教師(岩田さん)から別のメールが届き、英語で有名な私立大学の授業でも朝日新聞「争論」が話題になっていたことを知りました。

 その授業は「翻訳論の講義」だったそうですが、それに出席していた知人の娘さんの報告によると、教授はその授業で次のように語っていたというのです。

 

 「翻訳論の視点から言えば、どちらの意見(寺島隆吉鈴木典比古)も違うのではないか。グローバル化が謳われる今日において、翻訳は必要不可欠な作業だ。

 それと同時に翻訳の本質からすると、翻訳とは一語一語の逐語訳ではないこと、また2つの異なる言語の中には必ず翻訳不可能な部分が存在する。つまり、翻訳した書物では原書に太刀打ちできないものがある。

 それは、第一言語である日本語にも言えることで、日本語は、私たちの思考において、単語の存在そのもの、認識を作るものだ。

 それでは第二言語に当たる英語は何を担っているかというと、第一言語で存在した存在を別のものに転用させ、具現化させるものだ。

 つまり、どちらか片一方でだけで教育は成り立たない。」

 

 さて、この報告をもとに、退職教師の岩田さんは、私宛のメールで次のように書いていました(知人の娘さんから彼女宛に送られてきた報告はもっと詳しいのですが、ここでは割愛させていただきます)。

 

 「この報告を聞いて、訳書と原書という二元論にしてしまっているのは「翻訳論」の教授のほうで、寺島先生の言わんとしていることがきちんと理解されていないという印象をうけました。

 大学の授業を全部英語にして学生たちの時間を奪い、深く思考し創造する芽を摘んでしまうような学問のあり方に、寺島先生は警告を発しているのであって、ただ単に『翻訳に賛成とか』『翻訳書の是非』とかいうことではないと思います。

 また英語を学び英米の社会や文化を無批判に受け入れてしまうことの危険性や、こうした英語熱の背景については全く言及がなく大事な視点が抜けていると思いました。

 詳しいことは忘れましたが、かつてこうした論争のテレビ放映があり、画面の下に番組を見ている視聴者からの声が次々と書き込まれていました。それを見ていたら、『どうして英語をそんなに勉強しなければならないのか』といったような素朴な意見がたくさん寄せられていて、少数のエリートはともかく、普通の人々の素朴な意見はそうなんだよねと共感をもちました。」

 

 まさに彼女の言うとおりで、私は「翻訳に賛成とか」「翻訳書の是非」とかいうことを問題にしていないのです。論争相手の鈴木典比古氏は、確かに、「2つの異なる言語の中には必ず翻訳不可能な部分が存在する。つまり、翻訳した書物では原書に太刀打ちできないものがある」と言って「翻訳書の是非」を問題にしています。

 しかし私が問題にしているのは「原書でおこなう授業」「英語でおこなう授業」であって「翻訳書の是非」ではないのです。

 私の主張は、「原書でおこなう授業」「英語でおこなう授業」では、日本語教科書もなく日本人教師もいなかった明治の帝国大学に逆戻りするだけであって、膨大な時間の無駄づかいになりかねないという点にありました。私はそれをインタビューでは次のように述べました。

 

 「英語で授業をする必要があったのは明治初期、英語の教科書しかなかったころの話です。だから外国人から英語で教わったのです。

 でも、いまは環境がまったく違う。物理学であれ経済学であれ、高いレベルまで全分野が日本語で読めます。翻訳のレベルが高く、出版力もある。日本は大学の博士課程まで自国語で教育できる、アジアでは例外的な国なんです。

 実際、日本人物理学者が相次いでノーベル賞をとった2008年に、韓国日報がその背景を探り、『自国語で深く思考できるからだ』と指摘しました。

 韓国の名門大学は英語で科学を教えているのですが、韓国日報は、『日本と同様、自国語で教育すべきだ』と提言したのです。

 私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです。」

 

 ですから知人の娘さんの報告にあった大学教授は私の主張をまったく取り違えていることがわかります。

 この教授の授業は「翻訳者を育てる授業」だったそうですが、翻訳の出発点は原書を正しく読み取ることから出発します。間違って解釈したものを翻訳しているかぎり間違った訳書が誕生するだけです。

 私は前節で、日本語を正しく読み取ることのできない英語教師が少なくないことを問題にしましたが、英語で有名な私立大学の教授でさえ、長くもないインタビューの要旨を正しく把握できないことに驚きを禁じ得ませんでした。これで、どうして翻訳業が成立するのでしょうか。

 「2つの異なる言語の中には必ず翻訳不可能な部分が存在する。つまり、翻訳した書物では原書に太刀打ちできないものがある」などということは、今さら説明する必要もないほど自明なことです。しかしどうすれば原書の香りをなるべく壊さずに日本語に移しかえることができるのか、それを教えるのが「翻訳者を育てる授業」の任務のはずなのです。

 しかし、これは主として文学の話であって、論説・批評や工学・理学などでは、言っていることを正しくとらえることができさえすれば、原書を訳書に移し替えることはそれほど困難ではありません。 

 問題は訳者が「原書を正しく理解できているかどうか」「それを明晰な日本語に移し替えることができるかどうか」にかかっているのです。

 ところが、文学どころか論説すら正しく理解できないひとが少なくないことを上記の翻訳論の教授は端なくも証明してくれました。

 しかし現在ほど、この能力が求められているときはないでしょう。というのは大手メディアの報ずる外国ニュースは歪められたものがあまりにも多いからです。

 その典型例が最近のウクライナ情勢にかんする報道ではないかと思います。前述のとおり大手メディアでは、ウクライナ危機のすべてはロシアとプーチンにあると言わんばかりの報道で満ちあふれているからです。『戦争プロパガンダ10の法則』によれば、戦争したいとき敵を悪魔化するのが法則の一つですから、「さもありなん」です。

 イラクを侵略したときはサダムを、リビアを侵略したときはカダフィを、シリアを侵略したときはアサドを、そして現在はプーチンの悪魔化です。

 しかしZNetやGlobalResearchなどに載っている論文を少し調べて読んでみるだけで、ウクライナ危機の根本原因は全く逆であることが分かるはずです。

 たとえば、元CIA高官のレイ・マクガバン氏は、下記の小論で、現在のウクライナ危機はNATOがゴルバチョフの約束を破り東欧に進出してきたこと、またアメリカが何年も前から用意周到に準備してきたウクライナのクーデターに起因していることを、極めて簡潔明瞭にまとめています。
 Ray McGovern: Roots of Ukraine Crisis (ウクライナ危機の根源)

 

 しかし日本の大手メディアはこのような事実をひと言も報道しません。このような事実を日本語で知ろうとすると、今のところ、月刊『アジア記者クラブ通信』に頼るか、「櫻井ジャーナル」や「マスコミに載らない海外記事」といったブログなど、まったく限られた手段しかないのです。これだけ英語熱が盛んな日本なのに、私たちは全く情報鎖国の日本に住んでいるのです。

 しかも、せっかくブログ「マスコミに載らない海外記事」が大手メディアが伝えようとしない情報を日々翻訳してくれているのに、その翻訳が極めて読みづらい日本語なのです。膨大な情報の中から厳選した情報を、毎日、翻訳するのですから、わかりやすい日本語に推敲し練り直す時間がないことが、その大きな原因だろうと私は思っています。

 私はここで何を言いたかったのかというと、日本の英語教育は、「明晰で論理的で分かりやすい日本語にする技術」をもった「真の翻訳家」を、必要な人数だけ育てることすら、できていないということです。

 月刊『アジア記者クラブ通信』で紹介されている海外記事もブログ「マスコミに載らない海外記事」も、たったひとりのひとが翻訳しているにすぎません。これでは大手メディアが垂れ流す誤った情報にどうして対抗することができるでしょうか。

 移民としてアメリカに住むのならいざ知らず、日本というEFL(外国語としての英語)の環境では、「英会話」は日常的には全く必要ありません。ところが、この「英会話」「生活言語としての英語」に莫大なお金と時間を使っているのに、他方では、「学習言語としての英語」、いま最も求められている「読解力」や「翻訳力」の養成は、ほとんどまったく無視されているのです。

 権力をもっているひとたちは庶民が真実に近づくことを何としてでも阻止したいでしょうから、「会話ごっこ」に庶民がうつつを抜かしてくれることは、こんなに嬉しいことはないでしょう。というよりも、それこそが現在の「教育改革」の真の狙いなのかも知れません。

 ところが、ご覧のとおり、「翻訳者を育てる授業」を開講している高名な大学でも、こんなことは全く視野に入っていないようなのです。

 ですから、英語を「英語で学ぶ」とか、大学の授業を「英語で学ぶ」と言っている限り、若者の創造性や知的好奇心はすり減らされ、真理真実に近づくことは難しくなります。それを私はインタビューで次のように述べました。以下に再録します。

 

 「いまのような丸暗記型の英語教育は、若者の創造力をすり減らすばかり。受験戦争をくぐり、ようやくいろんな本が読めるという時期に英語漬けの毎日を強いていては、『英語バカ』を育てるだけです。文学も経済も科学もかじり、オールラウンドな教養を身につけて初めて、全体を見渡した仕事ができるというものです。

 私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです。

 そうやって自らの関心を研ぎ澄ませていけば、専門分野に進めば進むほど範囲が狭まり、使われる語彙の数も限られてくる。そこさえ英語で押さえれば、英語の文献も難なく読めるようになるのです。

 ところが、大学1、2年の教養課程から英語で授業を始めたら、幅広い分野を学ぶわけですから単語もあらゆる領域に及ぶ。語藁は無限です。覚えても覚えてもキリがない、底なし沼ですよ。

 しかも英語で1冊の本を読む時間があれば、日本語なら5冊、10冊と読めるわけです。英語の本をやっとこさ1冊読む間に、英米人なら5冊、10冊と読むわけですから永遠に追いつけない。それで勝てると思いますか。

 ips細胞を開発した京都大学の山中伸弥教授も、いまのように若いうちから英語、英語と追われていたら、たぶんノーベル賞をとれなかったのではありませんか。

 人間に与えられた時間には限りがあります。まずは考える力、そして疑問を持つ力を育てることにこそ大切な時間を使いたいものです。」

 

 何度も言いますが、このような視点が先述の「翻訳者を育てる授業」の教授に全く欠けています。私の主張を正しく読めていれば「原書がよいのか訳書がよいのか」という議論は生まれようがないと思うからです。その証拠に、先のメールを私に送ってくれた岩田さんは、私のインタビューについて、さらに次のような感想を書いてくれています。

 

 「寺島先生は、『英語で1冊の本を読む時間があれば、日本語なら5冊、10冊と読めるわけです』と言われています。このわかりきったことが私には今更ながら痛烈にひびくのです。

 昔は英語力をつけるにはとにかくできるだけ英書を読むことだと思い込んで辞書をくりながら根気よく英書(物語、小説)を読むことに時間を費やしたものです。日本語を読む時間があるのなら英書を読むべきだなどと思って……。

 と言うと大分英書を読んだように聞こえますが、『語彙は無限です。覚えても覚えてもキリがない。底なし沼です』から、辞書を引く回数の多さからしても読んだ英書の数はわずかなものです。

 それでも当時「寺島メソッド」を知っていたらもっとたくさん読めたかもしれませんが、今頃になって若い時の失われた時間を惜しんでいます。

 退職して活動する世界も広がると、自分の世界の狭さを実感し、『英語バカ』とは人ごとでない自分のことだったのかなどと落ち込んでしまうことがあります。『私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる。母語を耕し、本質的なものに対する知的好奇心を育むことこそが、大学が果たすべき大きな役割なのです』はとても大切な言葉です。

 論争相手の鈴木典比古教授は『(英語で授業をすると)最初は帰国子女や留学経験者のほうが英語力が高く有利なようですが、2年3年とたつうちに差はなくなります。むしろ学習意欲や理解力思考力に優れた学生が成長してゆきます』と書いています。

 では、その『思考力』は『どこで』『どのように』身につけるのでしょうか。その答えがここにあります。『私たちは母語である日本語でこそ深く思考できる』のです。

 また鈴木教授は『書く力』の大切さについても述べていますが、その『書く力』はどこで身につけるのでしょうか。鈴木教授はそれについて何も述べていません。

 しかし寺島先生へのインタビューは同時に、『何を書くのか』『書く力をどうつけるか』の答えになっていると思いました。日本語で書けないことは英語でも書けないからです。」

 

 私は教育学部に在職していたとき、未来の英語教師を育てる仕事、現職教師を鍛える仕事を永年やってきて、ときどき英語教師に絶望しそうになることがよくありました。

 彼らは英語のフレーズを覚えて英語を話すことに興味はあっても、内容のある日本語を読み、相手に分かりやすく伝わる日本語を書くことにあまり興味がないように見えたからです。

 つまり英語に興味はあっても、母語を鍛えることや人間を育てることには興味が無いのではないかと思わされたのです。まして世の中がどう動いているかにも興味がありません。これでは英語教育(そして学校教育)が良くなるはずがありません。

 しかし岩田さんのようなメールをいただくと、私の主張をきちんと理解してくれる英語教師もやはり存在するんだと分かり、元気が出てきました。そして閉じようかと思っていた英語教育研究会JAASETの活動も、何とか続けようかという気にさせられたのです。それが、JAASETを発展的に解消して退職後に起ち上げた「国際教育総合文化研究所」でした。

 それにしても、日本語を正しく読むことができないにもかかわらず「翻訳者を育てる」仕事に従事している教授がいるという現実には、何ともやるせない思いをさせられます。しかしこれは日本の英語教育を別の面で象徴的に浮かび上がらせてくれた事例とも言えそうです。

 

〈註〉日本人が「英会話」ができないのは、高名な社会言語学者である鈴木孝夫氏が喝破しているように、日本という環境では「英語は必要ないから」に過ぎません。生活が必要とすれば、私がベトナムで出会った路上生活の子どものように、英語や日本語で土産物を売りつけてきます。

 しかし他方で必要となったときに「英会話」ができないのは、頭に浮かんだ日本語をそのまま英語にしようとするからです。頭に浮かんだ複文の日本語を、同じ趣旨の単文に言い換えることができれば、簡単に英語で話すことができるようになります。

 要するに英語が話せないのは、頭に浮かんでくる日本語を別の易しい日本語に言い換える力が鍛えられていないからです。つまり英語力は日本語力に帰着するのです。暗記一辺倒の「会話ごっこ」は、私の言う「ザルみず効果」で、徒労に終わるだけです。詳しくは拙著『魔法の英会話』の理論編および実践編を参照ください。

 

〈参考文献〉
板倉聖宣(1979)『仮説実験授業のABC』仮説社
大西忠治(1981)『説明的文章の読み方指導』明治図書出版
鈴木孝夫(1999)『日本人はなぜ英語ができないか』岩波新書
寺島隆吉(2007)『英語教育原論』明石書店
寺島隆吉(2009)『英語教育が亡びるとき』明石書店
寺島隆吉(2015)『英語で大学が亡びるとき』明石書店
寺島隆吉・美紀子(2018)『寺島メソッド魔法の英会話』理論編、あすなろ社
寺島隆吉・美紀子(2018)『同上』実践編、あすなろ社
本多勝一(1976)『日本語の作文技術』朝日新聞社
山田昇司(編2016)『寺島メソッド英語アクティブラーニング』明石書店
ルカーチ、ジェルジ(1975)『歴史と階級意識』白水社
チョムスキー、ノーム(2006)『チョムスキーの教育論』明石書店
チョムスキー、ノーム(2017)『アメリカンドリームの終わり、あるいは富と権力を集中する10の原理』Discover2 1
ジン、ハワード&アンソニー・アーノブ(2012)『肉声でつづる民衆のアメリカ史』明石書店
モレリ、アンヌ(2002)『戦争プロパガンダ10の法則』草思社

 

〈参考サイト〉
*ブログ
「私の闇の奥」
「櫻井ジャーナル」
「寺島メソッド翻訳NEWS」
「マスコミに載らない海外記事」
*海外のサイト
RT(Russia Today)
https://www.rt.com/
Global Research
http://www.globalresearch.ca/

 

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